「ヌサンタラのポルトガル人(2)」(2020年07月30日) マゼランは南米南端を回って太平洋を西向きに進めばテルナーテにアクセスできるヒント をセハウンがマラッカ宛に送った手紙からつかみ、マゼランの世界周航という偉業の種が 蒔かれることになった。 マゼランはポルトガル王が拒否したそのアイデアをスペイン王国に持ちかけて最終的に承 諾させ、スペインの事業としてポルトガル人が総指揮官になるという異様な形式下にその 壮途に就いた。マゼランが連れて行った多数のポルトガル人はスペイン人に入れ替えられ たため、かれの航海はさまざまな障害に出会うことになる。 結局フィリピンまでたどり着いたマゼラン船隊は、地元セブ島の王が行っていた戦争に助 力を与えることになり、マゼラン自身はその戦争の中で生命を落とした。残された船隊は ほうほうの態で西への航海を続行し、何とかテルナーテまでやってきた。しかしポルトガ ルが握っているテルナーテ王国のセハウンと渡りを付けられる唯一の人間マゼランはもう いない。おまけに、その数カ月前にセハウン自身も、かれが東ジャワのグルシッGresikで 船の修理を行ったときに娶ったジャワ人の妻とふたりの混血の子供を残して、世を去って いたのである。 そんな状況の中でスペイン船隊を拾ったのがティドーレ王国だった。こうしてティドーレ とスペインの関係が築かれ、後にスペインがフィリピンを支配下に置くまで、スペイン軍 はメキシコのアカプルコから遠路はるばるティドーレ支援(スパイスの土産は言うまでも あるまい)のために何度も派遣されてきている。 ティドーレ王国がマゼラン船隊を拾わなければ、マゼランによるスペイン船隊の世界初周 航が実現しなかった可能性は小さくないように私には感じられる。マゼランの大成功を支 えた要因のひとつに、この北マルクの地域内動乱が貢献していたことがもっと語られてよ いのではあるまいか?マゼラン船隊の惨憺たるありさまは、 「マゼラン世界周航五百年(5)」(2018年11月02日) http://indojoho.ciao.jp/2018/1102_1.htm 「マゼラン世界周航五百年(6)」(2018年11月05日) http://indojoho.ciao.jp/2018/1105_1.htm に詳述されているので、ご参照ください。 1511年から1526年までの15年間、ヌサンタラの各地はポルトガル人にとっての 重要な中継港になった。ポルトガル船は定期的にスマトラ、ジャワ、バンダ、マルクを目 指して航海した。その間、インドネシアの各地にはポルトガル人が滞在し、かれらがそこ で暮らしながら通商と布教を行うことでプリブミの生活にヨーロッパ文化の影響が混じり こむようになっていく。 ヨーロッパ勢力として初のポルトガル人が東インド諸島と呼ばれていたこの海域にやって きたころ、この諸島では林立する諸王国間の覇権争奪があくことなく繰り返されていた。 その状況がヨーロッパ勢力の牙をその地に打ち込ませることに大いなる助力を与えたこと は言うまでもあるまい。 ポルトガルがマラッカを奪取してマラッカ海峡を自分の池に変えたとき、東インド諸島一 帯の地域交易を支配していたイスラム商人はマラッカ海峡をボイコットしてスンダ海峡か らインド洋に出、スマトラ島西岸部を北上してベンガルやインドシナ地域に向かう航路を 新設した。そのおかげで、バンテンとアチェという新興勢力が育まれることになった。 [続く]