「茶どころは西ジャワ州(後)」(2020年07月30日)

ファン・デン・ボシュが東インド植民地政庁の重要政策として進めた栽培制度下では、政
庁が土地を借地する形で茶の栽培が展開された。1863年、政庁はそれまで行政機構が
直接行っていた茶の事業を民間資本に委ねた。

それ以来、西ジャワの茶農園は目をみはるような発展を示した、とGLJファン・デル・
フークの5代目の子孫にあたるカレル・ファン・デル・フーク氏は2011年にインドネ
シアを訪れたとき、そう物語った。とりわけ、オランダ人農業専門家がインドのアッサム
種への切り替えをプリアンガープランターたちに勧め、それが実行された後の発展はたい
へんなものだったそうだ。

西ジャワの高原山岳部は神々の地を意味するインドネシア語Parahyanganがスンダ語化さ
れたPrianganと呼ばれ、オランダ人はそれに倣ってPreangerと呼んだようだ。このパラヒ
ヤガンの地は低地を主体とする中部東部ジャワに比べて気候が涼しく、また火山性土壌の
おかげで地味が肥えており、おまけに政治経済センターであるバタヴィアに近いといった
メリットを背景にして、茶農園事業が集中的に行われた。1936年のデータによれば、
蘭領東インドにある293の茶農園のうちで247がパラヒヤガン地方に作られていた。


現存する茶畑の美しさは、ボゴール県とチアンジュル県の県境に位置するプンチャッ峠目
指して街道を走れば、いつでも目にすることができるし、バンドンのバイパス自動車道で
あるプルバルニPurbaleunyiを東行すればワリニWaliniの茶畑風景を堪能することもでき
る。更にマラバルMalabarやチウィデイCiwideyなどでも、茶畑風景を楽しめる。

オランダ人茶農園事業の大成功がプリアガンの地にブームを巻き起こさないはずもなく、
プリブミ実業家(資金を持つ華人も当然そこに含まれる)から農民に至るまでが茶葉に目
を向けるようになる。こうして、プルワカルタ・チアンジュル・ガルッ・スカブミ・バン
ドンの各地に、プリブミ茶農園や茶畑が広がって行った。東インド産の茶製品は滔々とヨ
ーロッパ諸国に流れ込んで行ったのである。東インドのいくつかの地名を冠した茶葉が品
質の良さで地名ブランドにまで上昇したものもある。

現在まで、農園から工場に至る茶葉産業は150万人の労働者に仕事を与え、6百万人の
人間が生計の支えを得ている。その成果として、バラ売りのブラックティーとグリーンテ
ィーがヨーロッパ・アメリカ・アジア・アフリカ・オーストラリアの40カ国超に輸出さ
れ、2010年の輸出売上高は1,78億米ドルだった。

しかし、21世紀に入ったあと、インドネシアの茶葉産業は衰退期に落ち込んでしまった。
茶の作付面積が顕著な縮小を示すようになったのだ。1998年に15.7万Haあった
総面積は2010年に12.4万Haまで減少し、2003年の国内総生産量16.9万
トンは2010年に12.9万トンに低下している。

一方、グローバル国際通商は自由化傾向を反映して域内貿易自由化が進み、アセアンや中
国の産品が特恵関税を享受して国内市場に怒涛のように流れ込んできた。1996年の輸
入統計ではわずか50トン5万米ドルにすぎなかった輸入茶が、2009年には7千2百
トン1,250万米ドルに膨れ上がっている。かつて一世を風靡したジャワティ―が過去
の栄光を復活させる日は来るのだろうか?[ 完 ]