「ヌサンタラのポルトガル人(3)」(2020年07月31日)

ジャワ島では、ヒンドゥブッダ文化のスンダ王国が東に興ったイスラム王国からの侵略を
受けて苦境に立たされており、ポルトガルマラッカと軍事同盟を結ぶことは相互にメリッ
トのある話だった。軍事同盟を結ぶことが通商関係を深化させるのは当然過ぎる話だろう。

ましてや昔のマラッカの賑わいの一部が、通商路が変化したことでバンテンに移ったのな
ら、ポルトガル人がバンテンでの交易に参加し、あわよくばそこを支配下に組み込むこと
で得られる富を最大化させようと皮算用するのも無理はあるまい。

ジャワのイスラム勢力が指をくわえてそれを見ているわけがない。ドゥマッDemakとチル
ボンCirebonのイスラム連合軍が大軍を海路バンテンに向けて進発させ、バンテン港とそ
の後背地をスンダ王国からもぎ取ったのは、当時の政治軍事情勢に対して最大の効果を発
揮する戦略だったにちがいあるまい。


あるいはスマトラ島では、ラムリ王国の辺境の地でしかなかったアチェがその支配下から
脱して新興中継港に躍り出た。昔はラムリが中継港の位置を占めていたのだが、イスラム
通商ルートがマラッカ海峡ボイコットによってスマトラ島西岸に移って来たことから、そ
のルート沿いにあるアチェに棚ボタ効果が降って来たのだ。

国力を強めたアチェは南に向かって支配権の拡大に取り掛かる。現在のアチェダルッサラ
ム特別州であるスマトラ島北端部を伐り従えたアチェは続いてバタッBatak族の北スマト
ラ州とミナンカバウMinangkabau族の西スマトラ州へと南下して行く。それに対抗するた
めに、バタッもミナンもマラッカのポルトガル人に軍事支援を求めた。

北マルクと同じようなことがヌサンタラの各地で展開されたことになる。問題はポルトガ
ルがヨーロッパのマイナーな国でしかなかったことだ。至る所からポルトガル人に軍事支
援の話が持ちかけられたにもかかわらず、かれらはそれらの要請に逐一応じられるだけの
余力を持っていなかった。つまりは、スンダ王国も滅亡し、バタッやミナンカバウもその
後、それぞれの領土を蚕食された上に通商支配権をアチェに握られてしまう時期を余儀な
くされたのである。

ともあれ、地元プリブミの世界でそのような状況が起こっている一方で、マラッカからや
ってくる宣教師や兵士、あるいは商人などの集団は各地に取りついて一時期を過ごし、地
元民の暮らしの中に混じりこんだ。アチェとポルトガルマラッカが敵対関係にあり、戦闘
が頻繁に起こったものの、ゴアからポルトガル使節がアチェを訪れたこともあれば、ポル
トガル商人がアチェの町に住み着いて物産買付を行っていたこともある。敵民族は見つけ
次第皆殺しという現代感覚とは異なる空気が昔は流れていたようだ。国家主義民族主義下
の民族団結が成立するための社会条件がきっとまだ確立されていなかった時代なのだろう。


異文化間の接点で相互の言葉が影響し合うのは自然なことだ。既に上で挙げたポルトガル
語igreja(教会)はグレジャgerejaとなってインドネシア語に入り込んでいる。教会へ行
く日である日曜日はdomingoというポルトガル語がMingguというインドネシア語を生んだ。

1970年代に駐インドネシアポルトガル大使を務めたアントニオ・ピント・ダ・フラン
サ氏が在任期間中に調査してまとめた「インドネシアにおけるポルトガルの影響」と題す
る書物には、歴史の中でポルトガル人がインドネシアに持ち込み、残したものがいろいろ
取りまとめられている。

トマト・キャッサバ・セロリ・レタス・唐辛子・パイナップル・パパヤ・サツマイモなど
はポルトガル人がブラジルからヌサンタラに持ち込んだものだ。[続く]