「ヌサンタラのポルトガル人(5)」(2020年08月02日) またスラウェシについても、歴史を見るかぎりその地へやってきたのはポルトガル人だけ でなくポルトガルの文化を濃く受容したテルナーテのプリブミが大勢混じっていたわけで、 おまけにポルトガル人がヌサンタラから引き揚げた後もテルナーテ人とマカッサルとの交 流が消滅したわけでもなく、そういう長い時間のレンジと核から広がった周辺部分の動き を視野に含めるなら、マカッサルやマナドとポルトガル人の関わりを語彙の数で評価する ことは困難になる。 ならば、ポルトガル系の姓を名乗る人間がインドネシア人として各地に暮らしていること を、そのかかわりを示す別の要素と受け止めるのはどうだろうか。氏の調査報告によれば、 その様相は次のようになっている。 南スマトラ 1 バンテン 1 アンボン及びスラウェシ 27 フローレス 49 ちなみに政府教育文化省の北ジャカルタ市トゥグにおけるポルトガル文化に関する説明 (2018年)を読むと、インドネシア共和国成立直後のトゥグ村には150戸およそ1 千2百人が居住し、25の姓で構成されていた。しかし今現存しているのは6姓で、アン ドリースAndries、コルネリスCornelis、ミヒュールスMichiels、キーコQuiko、ポルトガ ルとドイツ混流のブロウネBroune、ポルトガルとアンボン混流のアブラハムスAbrahamsが その内容だ。 フランサ氏が他地方で使ったと同じ手法でこの実態に対処するとき、この中にポルトガル 系の姓だと識別できるものが果たしてどれだけあるだろうか? < バンテン > フランサ氏は、イスラム化したバンテンにポルトガル人が多数居住していたと書いている。 ポルトガル人はバンテンのスルタンと契約を結び、商館開設の許可を得た。後になってス ルタンは要塞を建てるようポルトガル人に要請したという話もあるが、真偽は不明だ。要 塞建設場所は後にオランダが要塞を建てた所だったそうだ。ポルトガル人は毎年やってき て、少なくとも数十人が次の来航までそこに留まった。 フェルノウン・メンデス・ピントFernao Mendes Pintoの書き残した記録によれば、15 46年1月に東ジャワのパスルアンPasuruanに進軍するバンテン軍にポルトガル人も40 人加わるように、との命令をスルタンが出した。これは義兄弟にあたるドゥマッのスルタ ンがイスラム化していないパスルアンを征服するために行う出兵だったそうだ。しかしそ の戦争は失敗し、パスルアンは陥落せず、反対に同盟軍に加わったスラバヤスルタンの王 子がドゥマッスルタンの生命を奪い、イスラム軍は解散することになる。現代インドネシ アでその事件は仕組まれた陰謀だったと解釈されているが、ピントはそこまでの推理を行 っていない。 1596年にハウトマン率いるオランダ船隊がバンテンにやってきて、スルタンと契約を 結んだ。ポルトガル商館の命運は尽きることになる。[続く]