「ヌサンタラのポルトガル人(6)」(2020年08月03日) < ジュパラ > マタラム王国スルタンの支配下にあった中部ジャワ州ジュパラでは、1600年から16 40年まで多数のポルトガル人が滞在して栄えていた。その間ドミニコ会が布教と宗教行 事を行い、また1632年にはポルトガル要塞が建設されて軍隊が駐屯した。この要塞は クリン郡ウジュンワトゥ村の海岸にあり、東縁33.5メートル、西縁37メートル、南 縁28,5メートル、北縁20.3メートルの不等辺四辺形で、城壁は既に朽ちていて南 だけが高さ2.1メートル、他の面は70センチほどしか残っていない。残っている部分 は依然として強固なままであり、砲座が海をにらんでいる。 1638年に東ヌサトゥンガラのソロルSolorへの赴任途上にあったフラーテル・マヌエ ル・ドゥ・サンタマリアの乗っていた船がジュパラ港で沈没した。時のマタラム王スルタ ン・アグンはフラーテル・マヌエルがジュパラの町に教会を建てて宗教活動を行うことを 許した。フラーテル・マヌエルはスルタン・アグンに対し、バタヴィアでオランダ人に迫 害されたカトリック教徒が逃れてきたらそれを受け入れ、あるいはかれらの行きたいとこ ろへの通行の自由を保証してほしいと求め、スルタン・アグンはそれも承認している。と ころが1641年にオランダがポルトガルマラッカを陥落させて領土を奪いポルトガル人 を追いはらったことで、スルタン・アグンにとってのポルトガルの価値は消滅してしまっ た。ジュパラもポルトガル人にとって安泰な土地でなくなっていく。 < パナルカン > ジャワ島東端の港町パナルカンPanarukanにもポルトガル人のコロニーができた。156 0年にドミニコ会がそこでの活動を開始している。ゴアのインド総督はこの地におけるミ サのために、毎年ワインを1トン送って来ていた。1580年、地元為政者がポルトガル 人に居住と交易活動のための土地を与えている。だがここも最終的にイスラム勢力に屈し たために、ポルトガル人は居場所を失ってしまうことになる。 < バンジャルマシン > テルナーテとマラッカ間の航路発見は最初フローレス諸島の東端から北上するルートだっ たが、テルナーテから北上してカリマンタンを通過する航路が発見されるにおよんで、こ の近道を取る方が好まれるようになった。ポルトガル船はカリマンタン島の北を回ってブ ルネイを中継港にし、あるいは南を回ってバンジャルマシンBanjarmasinを中継港にした。 バンジャルマシンにはポルトガル人コミュニティが作られた。イエズス会の牧師は地元ス ルタンから内陸部に入る許可を得て、6年かけてダヤッDayak族への布教に励んだ結果、 3千人をカトリックに受洗させたという記録が残されている。 < マナド > スラウェシ島北端の地マナドManadoには、テルナーテのフランシスコ会からたくさんの布 教者がやってきた。かれらは地元諸種族の首長と部下たちをカトリック教徒にしている。 テルナーテとミナハサ間の交通は、こうして密度を増した。 昔、ヨーロッパ人がスラウェシ島の名称としたセレベスCelebesはポルトガル語源だった という説がある。二コラ・デリオンNicholas Desliensの1541年製作の世界地図に描 かれているスラウェシ島北端の名称がPonta dos Celebresとなっており、それが後にこの 島全体の名称にされたというものだ。北スラウェシの海は難船事故が多い所として有名だ ったために、世界地図にそのように記載されたと考えられている。 ミハナサのケマ村から遠くない小島のひとつに、ポルトガル人の墓地があるという話もあ る。ミナハサにはポルトガル系の姓を持つ者も目立つし、地方語の中にもポルトガル語源 と思われる語彙が見受けられる。[続く]