「グヌンマスでワリニ茶を(前)」(2020年08月03日)

ジャカルタ都民の観光地プンチャッPuncak峠は周囲が茶畑に囲まれており、美しい景観を
楽しませてくれる。プンチャッ峠を少し下ったボゴール県側にあるグヌンマスGunung Mas
茶農園は、ボゴール県メガムンドゥンMegamendung郡とボゴール県チサルアCisarua郡にま
たがっていて、グデ・パンラゴ山系Pegunungan Gede Pangrangoを彩る茶畑の中心的存在
になっている。

グデ・パンラゴの最高峰はプンチャッ峠のずっと南にあり、プンチャッ峠がこの山系の最
高峰ということではない。この峠を越えるプンチャッ街道はボゴール県チアウィCiawiか
ら山麓東側のチアンジュルCianjurを通ってバンドンに至る近道としてダンデルスが大郵
便道路建設の際に作ったルートだった。この道路が建設される前は、ボゴールからバンド
ンへ行くのに山系の西から南をぐるりと迂回してスカブミSukabumiを通過するルートが主
街道になっていた。ダンデルスのおかげで距離がほぼ半分に短縮されたことになる。


グデ・パンラゴ山系の北部に位置しているマス山Gunung Mas一帯で茶農園事業が始まった
のは1910年で、フランス資本のGoenoeng Mas Francoise Nederlandingse de Culture 
et de Commerceという会社がオランダ植民地政庁からコンセッションを得て開始した。1
954年になって、農園経営はバンドン所在企業であるオランダ資本のNV Tiedeman K 
Van Kerchemの手に渡った。

1912年にはそこから近い南チコポCikopo Selatanでドイツ資本のNV Culture My 
Tjikopo Zuidが農園を開いた。この農園が日本占領下のジャワ島で、日本の同盟国ナチス
ドイツの「グルッペモンズン(モンスーン戦隊)」のための食糧補給と軍兵のための保養
施設の役割を担ったことは、
「南の島のUボート」
http://indojoho.ciao.jp/koreg/libuboat.html
に描かれている通りだ。戦争が終わった後、オランダ政庁は1949年にそのドイツ資産
を没収した

1958年、前年から開始されたオランダ資産国有化の波の中で、グヌンマス農園と南チ
コポ農園はインドネシア政府に接収された。共和国政府はそのふたつの農園を運営させる
ために西ジャワ統一新国有農園会社Perusahaan Perkebunan Negara Baru Kesatuan Jawa 
Baratを興し、この会社が最終的に現在の第8ヌサンタラ農園会社PT Perkebunan Nusan-
tara VIIIとなってそれらの農園を掌握している。

国有化が行われた時、グヌンマスは736Haの第一農園と659Haの第二農園、また
南チコポは745Haの第一農園と416Haの第二農園という明細になっていた。
[ 続く ]