「ヌサンタラのポルトガル人(7)」(2020年08月04日)

< マカッサル >
スラウェシ島ではマカッサルとブギスBugis族の国々がポルトガル人の優先目的地になっ
た。最初の訪問が行われたのは1525年だ。ポルトガルが前進基地を置いたテルナーテ
とマカッサルの交通が盛んになり、1536年にはブギス族の兄弟が洗礼を受けるために
テルナーテにやってきた。ふたりに洗礼を与えたのはテルナーテ行政長官(カピトゥン)
アントニオ・ガウヴォンAntonio Galvaoで、ふたりにアントニオ・ガウヴォンとミゲウ・
ガウヴォンの名を与えている。

マラッカは1544年にアントニオ・ドゥ・パイヴァをマカッサルに派遣して白檀の木を
探させたとき、マカッサルの北にあるスパSupa王国の王をパイヴァはカトリック教徒にし
た。プリブミの王侯たちから平民までを対象にして布教活動は熱心に行われ、カトリック
教徒は増加した。


マカッサルは徐々に力を付けて域内の有力勢力にのし上がり、周辺諸国への商活動に加え
てカトリック布教のセンターになる。それに対抗するかのようにイスラム布教も強まり、
ゴワGowaの王は16世紀初めにイスラム化した。とはいえ、この地域での宗教の自由は守
られていたため、それぞれの信徒は自由な環境下に共存していた。ポルトガル人ももちろ
んその風の中にいた。

ポルトガル人はマカッサルに商館を持った上に、マカッサルの王がパナクカンPanakukang
に要塞を作るように勧めた。この王はポルトガル語を話し、また読み書きさえできたが、
1638年にかれの王子がその後を継いだ。この王子は父親に輪をかけたようなポルトガ
ルびいきで、ヨーロッパの歴史や現代事情を熟知し、ヨーロッパで作られる世界地図のコ
レクションが趣味だった。


1641年にポルトガルマラッカが陥落したとき、一大恐慌が各地のポルトガルコミュニ
ティを襲った。マラッカから逃れたポルトガル人とムラユ人カトリック教徒の大集団が手
を携えてマカッサルまでやってきた。その中にはマラッカ教会の司教と教団も混じってい
て、かれらはマラッカの教会で使われていたさまざまな聖具を携えて来た。

1651年にマカッサルにいたカトリック教徒は3千人に達したそうだ。マラッカから来
た教団、マカオのフランシスコ会、イエズス会の地域指導部、マラッカ風の組織になった
ドミニコ会のそれぞれの教徒の合計がそれだ。

マカッサルのカトリックコミュニティでの最有力者は王の姉妹のひとりと結婚したポルト
ガル商人フランシスコ・ヴィエイラ・フィゲイレドだ。かれの妻になった王の姉妹は以前
からカトリック教徒になっており、ドナ・ジャシンタ・ダ・コスタの名をもらっていた。
その妻が没したためにフィゲイレドは王のカトリック教徒になっている別の姉妹ドナ・カ
タリナ・ドゥ・ノロンヤを後妻にした。


オランダは1660年、マカッサルに支配の手を伸ばし、ポルトガル要塞を奪取してマカ
ッサル王に条約を受け入れさせた。すべてのポルトガル人をマカッサルから追放させるこ
とがその中の一項に記されていた。マカッサル王は不承不承それを呑んだため、ポルトガ
ル人はマカッサルを去ることになる。

2千人のポルトガル人と多数のムラユ人カトリック教徒は新たな居住地を求めてマカオに、
シャムに、そしてフローレス島のララントゥカLarantukaへと旅立った。ララントゥカへ
向かった一行のリーダーになったのはフランシスコ・ヴィエイラ・フィゲイレドで、ドミ
ニコ会聖職者のひとりルカス・ダ・クルズLucas da Cruzが宗教面の指揮を執り、いくつ
かの聖具を運んで行った。フローレス島東部の数カ所にある教会には、そのときに運ばれ
た聖具とおぼしいものが今でも置かれている。[続く]