「ヌサンタラのポルトガル人(8)」(2020年08月05日)

< テルナーテ >
フランシスコ・セハウンがテルナーテの土を踏んだのは1512年で、1521年にマゼ
ラン船隊がテルナーテ海域に姿を見せる前にかれは没した。最初北マルクの諸島ではテル
ナーテとティドーレが二大勢力を構え、他の域内諸国は合従連衡の中で揺れていた。ポル
トガル人の登場はテルナーテとティドーレの双方に、通商上のみならず域内覇権争奪の戦
いの面でも大きな期待を抱かせた。テルナーテにやってきたセハウンにティドーレも誘い
をかけたようだ。結局セハウンはテルナーテ側に付いた。

当時のテルナーテもティドーレも、王は既にイスラム化していたが、ティドーレのスルタ
ンの方が信教の自由に寛大な姿勢を執り、テルナーテのスルタンはその点で狭量だったよ
うだ。カトリック布教の面から見れば、セハウンはティドーレに移った方が良かったかも
しれない。

マゼラン船隊の出現でポルトガルの威勢は減退した。威勢ばかりか、現実の力関係にも影
響が及んだ。スペイン+ティドーレ連合はまだ潜在性でしかなかったが、現実化する日が
来るのは目に見えていた。その結果テルナーテスルタンが勧めていた要塞建設に、ポルト
ガル人はいそいそと取り掛かった。


テルナーテのスルタンタバリジSultan Tabarijiはポルトガル人カピトゥンのヴィセンテ
・ダ・フォンセカVicente da Fonsecaとそりが合わず、ことごとにいがみ合った結果、ポ
ルトガルの敵と決めつけられて1536年にインドのゴアに強制連行された。フォンセカ
は空席になった王座にタバリジの異母兄弟であるスルタンハイルンSultan Khairunを就か
せた。

スルタンタバリジはゴアでカトリックに改宗し、ドン・マヌエルDom Manuelの名を与えら
れた。かれは更に洗礼の代父になった貴族ジョルダン・ドゥ・フレイタスJordao de 
Freitasにアンボンの地を進呈したので、帰郷してよいとの許しを与えられた。しかしか
れは帰郷途上にマラッカで病没した。

かれが残した遺言書の中にテルナーテの王位をポルトガル国王に譲ることが記されてあっ
たものの、ゴアのインド総督はその遺言を拒否し、ジョルダン・ドゥ・フレイタスを牢に
入れ、テルナーテの王位にはスルタンハイルンが就くことを再確認している。

< アンボン >
テルナーテを含むマルク全体のカトリック布教のために、多数のポルトガル人布教者がや
ってきてあちこちに住んだ。しかし組織立った布教活動が行われるようになるのは、フラ
ンシスコ・ハヴィエルFrancisco Javier(ザビエル)の到着する1546年を待たなけれ
ばならなかった。

ザビエルはセラムSeramやヌサラウッNusa Lautの島々まで精力的に巡遊し、テルナーテの
王妃や民衆をカトリック信徒にしたが、スルタンハイルンを帰依させることはできなかっ
た。ハイルンはザビエルにこう語ったそうだ。「神父、わたしがカトリックにならなかっ
たことを気に病むことはない。われわれの神は同じものなのだから、われわれは必ず天国
で再会するであろう。」

翌年マラッカに戻ったザビエルはマルクのイエズス会の礎石を作り上げた。1557年に
アンボンでは9つのカトリック教団が活動し、テルナーテは別にしてアンボンで2万人、
モロで2万人の信徒を擁する状況になっていた。

1562年、アンボンに初代カピトゥンが置かれてアントニオ・パイスAntonio Paisが初
代の長官になった。1569年、ヒトゥに交易所が設けられ、アンボン湾の向かい側にハ
ティウィHatiwi要塞が建設された。[続く]