「ヌサンタラのポルトガル人(9)」(2020年08月06日)

1572年にアンボンのカピトゥン、サンショ・ドゥ・ヴァスコンセロスSancho de 
Vasconcelosがアンボン市内に要塞を作り、要塞の中には教会が三つ建てられた。

1575年、アンボンカピトゥンの甥がテルナーテのスルタンハイルンを殺害したため、
ハイルンの皇太子がテルナーテ人を率いてアンボンの要塞を攻撃し、要塞は破壊された。
殺害犯人はゴアまで逃げたが、リスボンのポルトガル国王がテルナーテで裁きを受けさせ
るよう命じたため、手鎖を付けて海路テルナーテへ連行された。しかし護送途中のジュパ
ラで闘争が起こり、犯人はそこで殺された。

この事件はどうやら、テルナーテから悪辣なポルトガル人が追放されたことに関連してお
り、その悪辣な一派は1578年にテルナーテの敵であるティドーレに入り込んで要塞を
作り始めた。もちろんティドーレのスルタンと渡りをつけて行われたのは間違いがない。

しかしそのごたごたは長続きすることなく終わってしまった。1601年、オランダはヒ
トゥのハティウィ要塞を奪取した。1605年にはアンボンとティドーレの要塞も陥落し
て、ポルトガルのマルク防衛軍はオランダVOC軍に降伏してしまう。

オランダ人からポルトガル人への降伏勧告の中には宗教の自由を保証する一項が入ってい
たものの、実態は大違いであり、アンボンの支配権を手に入れたオランダは重要政策のひ
とつとしてアンボン人のプロテスタントへの改宗を強力に推進した。その結果、ポルトガ
ル人の布教によってカトリック教徒になったひとびとの子孫で、今日いまだにカトリック
であるという人間は存在しなくなった。

アンボンの町から去る意志をまったく持たずに最後まで残っていた32家族のポルトガル
人はその強制に耐えかねて終に町を去ることを決意したが、かれらはアンボン島から出ず、
ソヤ王がかれらに与えた山中の土地を目指して去って行ったという話が残されている。

しかしかれらは何代も世代を重ねる間にその地の地元社会の中に溶け込んで、最終的には
すべての家族がプロテスタントに改宗して今日に至っているそうだ。

< ヌサトゥンガラ >
ヌサトゥンガラへのポルトガル人の初来航がテルナーテを目ざすアントニオ・ドゥ・アブ
リウ船隊の寄港だったことは上で述べた。それ以来ポルトガル船は頻繁にこの島嶼部に寄
港して、水や新鮮な食糧の供給源として利用し、加えて白檀の調達も行った。東ヌサトゥ
ンガラを構成する四大島のひとつフローレス島は花を意味するポルトガル語に由来してい
るというのが定説になっている。元々はポルトガル人が島の東部をcabo de floresと呼ん
だことに端を発しており、1636年にオランダ人(VOC)が島全体の名称としてFlo-
resと呼ぶことを決めた。

しかしわれらがレミ・シラド氏は例によって、「Floresをみんなが花に結び付けているの
だが、その語源がfloresce, florescer, florestaのどれであったのかをいったい誰が立
証できるというのか?その最後の語彙でなかったことを誰が証明できるのか?」と世の常
識なるものへの安住をいましめる言を放っている。


1522年にはカトリック布教者がティモールやソロルに何年も滞在して大きい成果をあ
げている。1561年にマラッカ司教はドミニコ会宣教師4人を派遣して、恒久的宣教組
織を現地に作らせた。

1566年、アントニオ・ダ・クルズ神父はマカオからの寄金を元に、ソロルで要塞の建
設を開始した。イスラム界はジャワで既に強い勢力を築きあげ、またスラウェシでは強力
な布教活動を行っている状況から鑑みて、かれらがソロルに矛先を向けて来たときの安全
保障に、というのがその要塞建設の目的だった。

要塞の中には教会が四つ作られ、要塞の防壁沿いに地元民が集まって来て居住した。この
要塞の軍事力はすべてが傭兵で賄われた。要塞防衛軍司令官も傭兵であったが、さすがに
司令官の人選だけはマラッカの承認を得なければならなかった。

1577年にヌサトゥンガラのカトリック教徒は5万人に達している。アントニオ・ダ・
クルズ神父はララントゥカの町の外に神学校を設けた。1596年には50人の生徒がそ
こで学んでいる。その同じ1596年にはエンデEndeで要塞が建設された。要塞の中には
教会が三つ作られている。[続く]