「ゴルパラ茶(後)」(2020年08月06日)

プルバワティ、ゴルパラ、グデGedehの各地区に製茶工場が作られ、三工場が相互に協力
しながら生産活動を行っていた。1923年にグデ工場が火事に見舞われると、農園の茶
葉はすべてゴルパラ工場に運ばれて加工された。

1930年には業界に先駆けて製茶工場生産プロセスの電化が行われたし、工場生産管理
体制のプリブミ化も進展し、1932年12月にフスニ・タムリンMH Thamrinが国民参議
会Volksraadで呼びかけたプリブミサシpribumisasiに関して、その実践例として取り上げ
られている。

当時ゴルパラ茶はヨーロッパに輸出され、新聞雑誌に頻繁に広告が掲載されて知名度の高
い茶になっていた。日本軍進攻前のゴルパラ茶農園所有者はティーデマン・ファン・ケル
ヘムTiedeman van Kerchemだったそうで、ゴルパラ農園会社がいつどうなってしまったの
かを示す記録がなく、曖昧模糊としている。


日本軍進攻の前にオランダ植民地政庁は、日本軍に利用されて戦争遂行能力を高める可能
性のある資産施設を破壊する焦土作戦を行い、ゴルパラの製茶工場もそのときに一部が破
壊された。残った工場施設は当然閉鎖された。ところが日本軍はこの地方で従軍慰安婦狩
りを行い、女たちをスカブミの慰安施設に送るまでゴルパラの製茶工場に収容して監視し
たという話になっている。

1949年にはジオヴェリー社Geo Wehry & Coがオーナーになっていて、製茶工場を改装
した。1958年にはオランダ資産国有化の波の中でゴルパラ農園と製茶工場がゴルパラ
国有農園会社Perusahaan Perkebunan Negara (PPN) Perkebunan Goalparaの経営下に置か
れ、後にバンドンに作られた第12農園会社PT Perkebunan (PTP) XIIに移管された。

第12農園会社はゴルパラとブガムルルBungamelurの二つの農園をゴルパラ農園として合
併させ、その後ヌサンタラ農園会社のシステムに移行するため、西ジャワの第XI、XI
I、XIIIの三農園会社が1996年に合併してPTPNVIIIになり、大きくなっ
たゴルパラ農園は第8ヌサンタラ農園会社が経営する農園のひとつとして今日に至ってい
る。

第8ヌサンタラ農園会社が生産するゴルパラ茶の大半はドイツ・イギリス・米国に輸出さ
れ、国内市場向けにはワリニブランドで販売されている。では国内市場にゴルパラ茶は流
通していないのかと言うとそうでもなく、国内のある民間会社がゴルパラブランドを付け
た国内市場向けの茶葉を販売しているという、ややこしい関係になっている。

製茶工場には輸入者が派遣した品質監督者が駐在して、製品の品質チェックが行われてい
る。監督者は定期的に交替するらしいが、現在いるのはインド人だそうだ。

インドネシア国内では東部インドネシア地方がゴルパラブランド茶のメイン市場になって
いる。ジオヴェリー社の時代に活発なプロモーション活動が行われたことの成果だと考え
られているようだが、とは言え1970年代前半のころでもブタウィでは名の知られたブ
ランドだったわけで、ジオヴェリー社の販促活動効果の続き具合が地方によって異なって
いたということなのかもしれない。[ 完 ]