「ヌサンタラのポルトガル人(10)」(2020年08月07日)

ポルトガル人の居留が始まると、シッカSikkaとララントゥカの王族は学習のためにマラ
ッカへ送られ、カトリックに入信すればドンの称号の付いたポルトガル貴族の姓を与えら
れた。その子孫は現代までその姓を名乗り続けている。

1613年にオランダはムスリム勢力と連合してソロル要塞を陥落させたため、ポルトガ
ル人はララントゥカに逃れた。1629年にオランダの占領軍司令官が脱走してララント
ゥカに入り、カトリックに改宗してポルトガル側に付いた。それからほどなく、オランダ
軍はソロルから撤退した。ソロルには商業価値のある物産が何もないことが明白になった
ため、ソロルの占領は無意味だと判断されたからだ。

1630年にソロルのポルトガル要塞は回復され、12人の宣教師が新たに到着した。し
かしエンデではポルトガル防衛軍の暴動が発生したため、宣教組織は崩壊した。エンデで
起こったその暴動というのは、傾城の美女がからんだできごとだったように伝えられてい
る。


フローレスでよく知られた伝説によれば、要塞防衛軍司令官がフローレスの美少女に心を
奪われた。しかしこの娘は神父のひとりを恋慕していた。嫉妬心から、司令官はその神父
が娘に言い寄っているのだと地元民と軍内に言いふらした結果、教団と神学校生徒に対す
る虐殺へと発展した。事件の展開に恐れをなした娘とその家族は別の地方へと逃れたが、
娘は生きる気力を失って死んでしまった。この娘の墓は多数のフローレス島住民にとって、
参詣するべき場所になっている。しかもどうやら、異なる部族が異なる場所をその娘の墓
としているようだ。


1636年、ソロルの宣教組織はソロルでの活動を永久放棄することを決め、全員がララ
ントゥカに移住した。1660年、ララントゥカにたくさんのポルトガル人家族がやって
きた。フランシスコ・ヴィエイラ・フィゲイレドの率いる、マカッサルを追われたポルト
ガル人たちだ。かれらは先にマラッカから逃れてここに来ていたひとびとと合流し、ララ
ントゥカ、コガKonga、更にアドナラAdonara島のヴレVuleに居住地を広げて行った。地元
民はそれらをKampong Malaio(カンプンムラユ)と今でも呼んでいる。

1679年の記録では、その地方で活動している宣教師は15人になっている。既に長期
にわたってこの地方に対する組織的なミッショナリー活動推進は途絶えてしまい、政治的
軍事的な後ろ盾を持たない個人の動きだけになっていた。

ある場所では、二十年間たったひとりの神父が宗教活動を行っていただけで、かれが没し
た後は二十年間神父不在の場所になり、そしてまたやっとひとりの神父がやってくる、と
いう状況だったそうだ。

そのような時期にやってきた神父はたいていひとりの軍人がガードとして随行した。階級
は軍曹レベルだった。軍人は神父の身辺の安全警備を任務にして、神父に付かず離れずの
保護を与え続けた。軍人は聖職者でないから妻を持つ。地元の女性を妻にして、最終的に
その子孫が地元民として今日まで続いている家系が、この地方には少なくない。言うまで
もなく、かれらはポルトガル系の姓名を名乗っている。

1856年、オランダとポルトガルが条約を結んだ。それによれば、ポルトガルがララン
トゥカ一帯の領有権を含む一切の権利を放棄する条件として、その地方に築き上げられた
人間を含むカトリック文化の維持保存、つまり地元民の信教の自由を侵さないことにオラ
ンダ側が責任を負うという合意だ。

その内容はポルトガル側が地元民に徹底的な情報公開を行った。ディリDiliのカピトゥン
ロペスがシッカ王に書簡を送って、事の成り行きに関する詳細な説明を与えているのがそ
の一例だ。[続く]