「ヌサンタラのフランス人(1)」(2020年08月10日)

フランスという国が海外覇権競争に出て行くことにあまり熱心でなく、また貪欲でもなか
ったのは、その国が持った体質だったようだ。フランスの国家支配者は陸続きの土地で覇
権を打ち建てればそれで十分だったように見える。

確かにパリの地理的位置はリスボンやアムステルダム、あるいはロンドンに比べて港から
あまりにも遠く、海洋関連活動を指揮するのに困難であるのは確かだ。だがそれを言うの
であれば、マドリードの姿勢は絶賛されるべきものになる。もちろん国としてどう関わる
のかという点に立脚した場合、地理的位置などは山なす諸条件のひとつでしかないと言う
こともできるだろう。

フランス民族がそういう体質を持ったのは、食うに困らない農業国であったこと、国政決
定者の恣意が統治行政に方向性を容易に持たせないような統治システムになっていたこと
などの要因をフランス人が説明している。

かと言って、マクロ的様相がどうであれ、だからフランス人が海に出ることを厭う人種だ
ったなどというものの見方はパンドラの函に押し込んで鍵をかけ、海の底深く沈めるべき
だ。スペイン王が仕立てたポルトガル人マゼランのスパイス島を目指す地球一周大航海で、
その船隊に乗り組んだ270人の船乗りの中にフランス人が19人いたそうだ。ひょっと
したら、自分が連れて来たポルトガル人船乗りがスペイン人に変えられたため、マゼラン
はスペイン人を減らそうとしてフランス人を加えたのかもしれないのだが。


フランス人がフランス船でスパイス諸島を目指した最初の航海は1526年のことだった。
かれらの方がオランダ人よりはるかに先行している。ヴェラザヌVerrazaneが指揮する2
隻のフランス船が1526年6月15日、ノルマンディ海岸のオンフルールHonfleur港を
出帆した。

ヴェラザヌはフィレンツェ出身のイタリア人であり、イタリアではヴェラザノVerrazano
と称したが、フランスのリヨンに移住して名前をフランス風の発音にしている。ヴェラザ
ヌ兄弟はフランスのルオンRouen港から1524年1月1日に帆を上げて西に向かい、ア
メリカ大陸北東岸を発見した。ハドソン湾に至り、マンハッタン島そしてロードアイラン
ドなどに足跡を印している。ロードRhodesという島の名称はかれらが付けたもので、ギリ
シャのロドス島に似ていたのがその由来だと説明されている。またニューヨーク市の橋の
ひとつにヴェラザノという名前が使われている。

さて、スパイス諸島を目指したヴェラザヌ船隊は1520年にマゼラン船隊が発見したマ
ゼラン海峡を通って太平洋に出てから、太平洋を横断してスパイス諸島へ行こうともくろ
んだのだが、マゼラン海峡を探し回ったあげくそれを見つけることができなかった。仕方
なく船首を東に向ける方針に変えたところ、相当くたびれていた乗組員たちはこの航海が
失敗に終わるかもしれないと考えて、これ以上進みたくないと隊長に反抗した。少なくと
も一隻は帰国させろという話になり、ピエール・クネイPierre Caunay船長の船だけが単
独航海することになった。

船はインド洋に乗り入れてマダガスカルの海岸線をはるかに望みながら東航し、1527
年の夏にスマトラ島の海岸線を見出した。船が到着したのはアチェの西海岸であり、原住
民は非友好的だった。乗組員らが上陸すると戦闘に発展して、船長をはじめ多数の乗組員
が死んだ。残った者たちはスパイス諸島への航海をあきらめてインド洋を西へ引き返すこ
とにした。

モルディブ諸島を経てマダガスカル島に達し、かれらがマダガスカルの土を踏んだ最初の
フランス人になった。休養と食物を満喫してから1527年末にかれらが帆を上げて再度
帰国の途に踏み出したあと、船は浅瀬に座礁して退き引きならぬ状態になってしまう。

生き残った12人は船を壊して筏を作り、海流に任せてそこから脱出しようとした。そし
て流れ着いたのがモザンビークの砂浜だったのである。着の身着のままのボロボロの衣服
にほんな僅かな、まともには食えそうもない食糧を持った12人が再び陸地を踏んだのは
1528年7月18日のことだった。かれらがポルトガルの現地守備隊に捕らえらたのは、
避けようもない結末だったにちがいあるまい。それ以後、かれらの消息は闇に包まれた。
[ 続く ]