「ヌサンタラのフランス人(2)」(2020年08月11日)

一旦フランスに戻ったヴェラザヌは、新たにフランス船ラマリーデュボンセクール号を雇
ってピエール・クネイの後を追わせた。船長はジョン・ブルイリ・ドゥ・フュメJean 
Breuihly de Fumay、そしてポルトガル人水先案内人も乗船させた。ボンセクール号は大
西洋を縦断し、喜望峰を回ってザンジバル島まで進んだ。そしてインドに接近しつつあっ
たとき、海上でポルトガル軍船に拿捕された。乗組員と船中の資産資材は一切合切が姿を
消した。

惨憺たる失敗に終わった捜索行に、フランスを代表する大型船主のひとりジョン・アンゴ
Jean Angoが熱意を燃やした。かれは自分の負担で第二次捜索船を送り出した。


同じ1526年にジエップDieppe港を出たセバスチアン・カボットSebastien Cabotとパ
ルモンチ―ルParmentier兄弟の船は好運だった。かれらはフロリダ→西インド諸島→ブラ
ジル→マダガスカルを巡航してからスマトラに到達した。かれらが上陸したのはミナンカ
バウ王国の支配下にある商港ティクTikuだった。

かれらの報告によれば、「地元民は柔和で諍いを嫌うが商売には厳しい態度を取る」のだ
ったそうだ。ポルトガル人が海外のあちこちで行っている行動を観察したカボットは次の
ような意見を書き残している。

ポルトガル人はまったく友好的な態度を示さない。各地でその地の主のように振舞ってい
るかれらは通商面での利益獲得よりも宗教面での勝利者になろうと意気込んでいる。原住
民の半分がキリスト教徒になったとしても、ポルトガル人は原住民に神学の深い知識を与
えようとしない。そんなことをして地元民の愚かさを消失させては、ポルトガル民族にと
ってのメリットがなくなってしまうからだ。・・・

16世紀末に海外植民地に住むヨーロッパ人の人口は20万人を超えていたが、あれほど
アジアの各地に基地を置いてヨーロッパ文明の優位を誇示していたポルトガル人のアジア
居住者人口は1万人を超えたことがなかった。フランス人でさえ、1665年にはカナダ
に3千人超の植民をしていたというのに。


ジョン・アンゴと言えば、ルオン出身の海運王でフランソワ一世にジエップ子爵の爵位を
授けられたその当時の著名人のひとりだった。かれは海外雄飛の強い望みを抱き、新世界
の探査発見や植民、イベリア諸国のスパイス独占貿易の打破などを行うために持ち船を駆
使し、優れた航海者や海図製作者などと交わり、あるいは育成した。

1529年、かれは自分の船ラポンシLa PenseeとラザクルLa SacreをジョンJeanとラウ
ルRaoulのパルモンチール兄弟に使わせて香料諸島に向かわせた。三年前にヴェラザヌが
レンタルした2隻よりずっと大型の船だ。

2隻は1529年4月2日にジエップ港を出帆した。マダガスカル到着はその年の7月2
6日、スマトラ到着は10月2日だった。当時の航海としては記録的な速さのものだった。
当時、各船は水や食料補給と乗組員の休養のためにあちこちの港に寄り、ゆっくりそこで
滞在するのが普通だったからだ。それを無視して突っ走ったために、乗組員がバタバタと
病気で倒れた。

2隻はティクに着いて交易し、かなりのコショウを仕入れた。原住民との親善は最初うま
く進んだように見えた。贈り物を交換し、地元統治者がかれらを晩餐に招いた。だがそこ
で、奇妙な原住民の風習に巻き込まれた。シリピナンを噛み、大麻を吸って酔っぱらった
のだ。[ 続く ]