「ポルトガル船隊の食糧政策(前)」(2020年09月08日)

ヨーロッパ人の中でアジアに一番早く進出して来たポルトガル人がアジアにある海洋のほ
ぼ全域を活動と支配の舞台にし得た原因は、船や航海術あるいは武器兵器の優秀性などい
くつかの要素があげられるが、ポルトガル人が海外で行った食糧政策も忘れてならないこ
とがらのひとつだ。

ポルトガル人が民族をあげて海外への進出に向かった裏側には、ベニスが独占していたス
パイスが影を落としている。スパイスはヨーロッパではるか昔から知られていたものの、
その原産地についての情報はだれも知らなかった。ポルトガル人はその原産地へのアクセ
ス路を追求したのである。

15世紀にポルトガル人は海へ乗り出して大西洋のあちこちの土地を奪い、植民地を作っ
た。新たな領土を持つことのメリットはかれらに植民地主義路線がもたらす大きな栄光の
夢を抱かせた。そこにスパイスが付加されるなら、小国ポルトガルがヨーロッパの大国に
肩を並べることもありうる話になる。

1488年、バルトロメウ・ディアスBartolomeu Diasが大西洋を下ってアフリカ大陸最
南端の喜望峰に達した。1498年、ヴァスク・ダ・ガマVasco da Gamaは喜望峰を回っ
てインド洋に入り、インドのカリカットに達した。インドのゴアにアジアの拠点を置いた
ポルトガルは、アフォンス・ドゥ・アルブケルケAfonso de Albuquerqueインド総督が1
511年にマラッカを陥落させた。

マラッカからスパイス諸島への初航海がアントニオ・ドゥ・アブリウAntonio de Abreuの
指揮する船隊によって行われたが、目的果たさず帰還する。しかし船隊の一隻が難破して
アンボン島に流され、最終的にその船を指揮していたフランシスコ・セハウンFrancisco 
Serraoが念願のスパイス諸島に到達したのである。


ポルトガル船が本国から航海に出る時、船に乗組む者ひとりあたり塩漬け肉15kg、玉
ねぎ、酢、オリーブ油がひと月分の割り当てとして積み込まれた。船長には鶏肉と羊肉が
追加された。カトリック教徒の断食や肉食禁止の時期には、肉の代わりに米と魚やチーズ
が用意された。

ワインと水それぞれ1.5Lは毎朝与えられた。水は飲用および料理のためであり、水は
木製貯水器に保存された。

それは最初のひと月間だけだったのだ。それを過ぎると、食事のクオリティは大幅に劣化
した。そのあとは、塩を利かせた乾パンが主食になる。しかしそんな防腐手段はたいした
効果をもたらさなかった。たいていの場合、乾パンは腐って悪臭を発した。ゴキブリのせ
いだ。おまけに木製貯水容器の水も容易に汚染した。下痢や感染症が船内にはびこるのは
当然の帰結であり、その結果、発病する者や回復しないまま死亡する者が船内にあふれる
のは普通のことだった。

ヴァスク・ダ・ガマの四隻の船隊に乗った160人の乗組員のうちの100人は壊血病で
死亡した。この壊血病はイギリス人ジェームズ・ランカスター船長が1601年に予防法
を発見している。


長期航海で必ず発生するこの食糧問題(新鮮な食糧と水の補給)にどの国も頭をひねった
ものの、なかなか名案は出現しなかった。七つの海に雄飛して覇権を競い合った諸国のい
ずれもが、この致命的な問題を抱えていたのである。

それぞれの国の船隊が取る航路にある港を奪って自国領にし、そこに食糧と水を用意して
おいて、やって来る自国船に供給することはだれもが行った。そんな中でポルトガル王は
航海に出る船隊に乗組んだ国民に特別のインセンティブを与えた。1518年5月18日
に出された布告は、船隊が寄港地にした土地で下船し、現地の女を娶って家庭を作り、食
糧生産に励む者に特別な待遇が与えられることが記されているそうだ。この制度はカサー
ドcasadoと呼ばれた。[ 続く ]