「インドネシア農民の祖先はだれ?(上)」(2020年09月10日)

東南アジアにおける稲作文化の広がりは、その地域に前からあった狩猟=採集文化を駆逐
した。文明文化というものは、それを作り上げた種族の人間がやってくることによって別
の土地に定着するようになる。もちろん留学して持ち帰ることも可能だが、数千年前の時
代にそんな方法を可能にする状況が存在したのかどうかを考えると、その方式については
悲観的にならざるを得ないだろう。

とするなら、新しい文化はそれを作った人間集団が移住して来ることで広がったと考える
方が順当に思われる。であるなら、文化の駆逐というのは、先住民の場所に移住者がやっ
てきたことを意味することになる。そのとき、先住民が文化を取り換えたのか、それとも
新文化を持った移住者が先住民と入れ替わったのか、というふたつの可能性に思い至る。
最近の学説では、稲作の広がりはヒトの移住を示すものと捉えられている。

東南アジアでの人種的混在は世界でもっとも多様な部類に入る。新人類ホモサピエンスの
東南アジアへの移住についての定説がまだ確立されていないにせよ、現在の主流派は、東
南アジアへのヒトの移住にふたつの波が起こったという見解を述べている。


最初の波は5〜6万年前にアフリカから出て来たオーストラロ=メラネシアンAustralo-
Melanesianで、かれらは東南アジアのオーストラロイドAustraloidであるフィリピンのネ
グリート、パプア人、ニューギニア人、オーストラリアのアボリジンの祖先になった。現
代の子孫たちも祖先と同様に、狩猟=採集生活を基本にしている。

この初期人類が残した遺物は東南アジアに幅広く分布していて、かれらが住んでいた場所
は第二波人類の子孫が現在住んでいる地域であると考えられている。第二波人類は今から
4千年前にやってきて先住民と入れ替わり、その土地で耕作を始めたということなのだろ
うか。

この第二の波は台湾起源out of Taiwan説と呼ばれ、この第二波が稲作やキビ類穀物栽培
文化を携えて東南アジアに進出し、先住民と入れ替わった。先住民は居住地から押し出さ
れて西方へ逃れ、パプアとオーストラリアはその押し出し劇から取り残された。この理論
の第一人者はPrehistory of Indo-Malaysian Archipelago (1985年)の著者であるオ
ーストラリア国立大学名誉教授のピーター・ベルウッド氏だ。

かれは東南アジア諸語のマジョリティにとってのルーツであるオーストロネシア語Austro-
nesianの分布に関する研究にもとづいてひとつの理論を組み立てた。オーストロネシア語
はフィリピン・インドネシア・パプア沿岸部・太平洋の島々をカバーしている。オースト
ロネシア由来の単語はインドネシアの諸種族語からインドネシアの国語に至るまでたくさ
ん含まれている。たとえばmataという単語はインドネシアのほとんどすべての地方語に存
在し、もっと祖先をたどって行けば台湾原住民も使用していることに出会う。


ところが遺伝子研究を含む種々の研究は、ただ台湾から出て来たというシンプルな理論の
成立を許さない。ポルトガルの遺伝子研究家ペドロ・A・ソアレス氏とかれのチームが2
016年のThe Geneticジャーナルに掲載した論文には、東南アジア島嶼部への農耕人の
移住は東ルートと西ルートを通ったと述べられている。

その西ルートというのが、4千5百年前の中国南部からベトナムへの農耕人の移住が起こ
った時期に該当している。農耕人の一部はさらにベトナムからマレー半島を経由してスマ
トラに達し、中には海路をスマトラに向かった集団もあった。言語類型論ではかれらをオ
ーストロネシア祖語Proto-austronesianと呼んでおり、オーストロアジア語族Austro-
asiaticやモン・ミエン語族Hmong?Mienといったアジア大陸側に居住しているその子孫を
今でも見出すことができる。

遺伝子のDNA結合モチーフであるハプログループの分布にも、その状況が投影されてい
る。西部インドネシア地方のスマトラ・ジャワ・カリマンタンにはミトコンドリアDNA
のB5a1型とF1a1a型が分布しており、かれらは南下してヌサトゥンガラからパプアにまで
移住したと考えられている。[ 続く ]