「ヌサンタラのフランス人(34)」(2020年09月12日)

かれらは農地の地主兼商人になった。かれらがジャワにやってきたとき、ジャワ人はみん
な農民だった。それがオランダ人の進路に影響を与えた。オランダ国民の中に、都市生活
者であるにもかかわらず農園主の暮らしに憧れる者がたくさんいた。と言うより、農園用
地など欲しくないと言う人間はいなかったのだ。

都市部でも、村落部と同様に広大な土地の上で生活が営まれているものの、あれほどの贅
沢さとは無縁だ。かれらは有り余る豊かさの上で生活しているが、生活そのものはシンプ
ルで、すべてが計算しつくされている。

都市部から数時間離れた村落部に住んでいる、とある植民地官僚の昼食メニューをご紹介
しておこう。チキンスープ、白ワインとライムで茹でた貝、飯とフライドチキン、仔牛と
キノコ、ローストビーフ、サヤインゲンとアスパラガス、ジンジャーソース、果物、コー
ヒー。そしてデザートのアイスクリーム。夜も似たようなメニューで、夜にはモーゼルや
ボルドーのワインまたはシャンパンが出る。

島の果てから山地に至るまで、どんな遠隔地であっても、男の使用人がまったく感情を表
情に表さないまま、色の塗られた大きなヤシの葉を休まずに動かして風を起こしている。
女性たちは一様に、ライムの葉を浮かべたフィンガーボールにそっと指を浸し、濡らした
指の腹で唇を拭く。わたしの知っていることは他に何かあっただろうか。


この二十世紀にアジアに住んでいるヨーロッパ人の弱点は次のようなものだろう。ヨーロ
ッパが信じて疑わないことのひとつに、オランダはこの熱帯の地に作った植民地を維持し
続けて行くだろうというものがあるが、それは間違いだ。6万人という十分大量の人口を
擁しているとはいえ、インドの植民地にいるイギリス人は10万人を超えている。インド
シナのフランス人は6千人だ。ジャワ島を巡っているときわたしは、25年間ヨーロッパ
の土を踏んでいないと言うひとびとに何人も会った。かれらはそれを誇っていた。

わたしがヴェルテフレーデン軍大病院を訪れたとき、アチェから移送されて来た負傷者た
ちを大勢目にした。かれらは身体を洗われ、治療を受け、最善の医療技術とたっぷりの同
情心に包まれ、何ら不自由のない環境に置かれているというのに、かれらの表情には哀し
みの色が浮かんでいた。わたしは案内の医師に尋ねた。「かれらはなぜあんなに哀しそう
にしているんですか?」医師はふたつの言葉を口にした。「故郷の喪失です。」

かれらはヨーロッパへの望郷の思いに焦がされ、しかし心は東インドをもさまよっている。
かれらは帰国するとき、ジャワにさよならを告げる。そのとき、後悔が心をよぎる。オラ
ンダへ帰ってから、ジャワで体験したような楽しい暮らしが果たしてできるのだろうか。
オランダで待っているのはどんな暮らしなのだろうか。


ヨーロッパ人がジャワで暮らすとき、本人は適応する意志があるのだから問題ないが、子
供たちはどうなる?教育を受ける年齢に達したとき、芸術・高い文化・宗教・理想・祖国
などに欠けている社会の真っただ中に置かれた子供たちの将来は不安に包まれる。だから
子供たちをオランダに送って高い教育を受けさせ、愛国主義を、ナショナリズムを心に植
え付けるのである。東インドでの暮らしの空虚さを埋めるために、子供たちはオランダに
帰す。子供の教育という名目が親たちを祖国に引き寄せる。

ジャワに住む植民地主義者や行政官僚は永続性のない客人だ。かれらは滞在期間をできる
だけ短くしようと心掛ける。巨額の報酬、年金生活のための先掛け、そして帰国。微笑み
あふれる、広範な生活が可能な、容易に成果が得られる東インドを惜しむ気持ちなどさら
さらない。[ 続く ]