「ヌサンタラのフランス人(37)」(2020年09月15日)

そうなれば、次のステップは自分の店を開くことだ。加えて別の店への商品供給も行う。
そうやって商売仲間を作り、そのうちに仲間の仕入れや販売に影響力を振るうに至る。ヨ
ーロッパの産品を売って利益を得、プリブミの製品を買って利益を取る。金がうなり始め
れば、遊ばせておく法はない。かれらは銀行分野や金貸し分野に入って行く。遠慮もなけ
れば自主規制もなく、へどを吐く職種もなければ軽蔑するべき職業も存在しない。大きい
ビジネスを追求するのは当然のことだが、細かいビジネスを軽視することもない。

ヨーロッパ人は事業が成功して財が蓄えられたなら、その事業から離れる。しかし華人は
とどまる所を知らない。自分の職業で世の通常でない巨額の財を築くために、かれは真剣
に働く。資産は往々にして不動産の形を取る。都市部にある美麗な大邸宅はたいてい華人
のものだ。ただし外見はそれほど華麗な姿にしない。一見、質素な装いになっているもの
の、中に入れば贅沢この上ない内容が現れて来る。バタヴィアやスラバヤの路上で何台も
の高級大型車を目にしたなら、そのオーナーはまず華人だと思って間違いない。


わたしにとって幸運だったのは各地の行政官僚の手助けを得たことであり、そのために言
葉の問題が大きい障害をもたらす事態に遭遇しなかったことだ。オランダ政府が各地の行
政官僚に担当地域の地元言語を修得することを命じていたのは、個人生活や職業生活でか
れらが与える諸指示のための便宜といったものをはるかに超えた、政治的な意味合いを強
く持っていたのではあるまいか。つまり政庁は原住民が統治者の言語をマスターすること
を好まなかったというのがその意味するところだ。あらゆる真理を述べることが常に良い
とは限らず、書かれたものがすべて読解されるのが常に良い結果をもたらすとも限らない。
オランダ語の書物・パンフレット・新聞の中に、虐げられている原住民に読ませるべきで
ないものは有り余っているのだから。

オランダ人のやり方はフランス式とまったく異なっている。フランスでブルジョア階級の
子供たちはすべて中等教育を受け、そこでヒューマニズムに触れる。オランダでは、その
種の子供たちはブルジョア教育の学校で小学校レベルから上級中等レベルまで学ぶ。

それはフランスの大臣が提唱した特別教育とよく似ている。言語と科学のふたつの柱を根
底に置いた教育だ。どんな職業であれ、将来部下としての仕事をするだけの生徒たちに適
切なものであり、もしも知識や能力をもっと拡大して幹部や上級の位置に上ろうとする生
徒たちや、アントレプルヌールとして成功しようとする生徒たちにも、それは将来の発展
性を助けるものになる。

だが平均的な頭脳の持ち主で、社会や行政の最前線で活躍したい希望を持つ者には適切で
ない。実用的知識がかれの思考パターンを形成するがために、適用と調整の能力に欠けて
しまう。行政機構で働く者にとって必要不可欠な哲学を修得するのに困難が生じる。政治
教育は与えられないのだ。

東インドの官僚候補者は行政官としての知識をほんの少ししか与えられない。そんな知識
だけで行政機構の末端から中級までの役職に就くのである。一方、頂点の座に着くべきひ
とびとは政治と行政の十分な知識を持たずには済まない。かれらの役割はただ組織を統率
するだけでなく、もっと広いスケールにおいて命令を下さなければならないのだ。そんな
知識は小学校でも、オランダのブルジョア階級向け実業学校でも教えていない。東インド
上級官僚向けの教育は技術面の教育だけでなく、実際面におけるものでなければならない
のである。

イギリス・フランス・スペインの各国に、かれらが植民地にした土地の原住民に何をして
やったかを尋ねてみなさい。教育を与えようとしたのか、そしてどのような教育を?この
直接的な質問に対して、かれらは直接的な回答をしない理由を常に持っている。かれらは
原住民を愛おしみ、監督し、教育したいと思っている。ところがその実行を阻むいくつか
の障害に遭遇するのだ。かれらは宗教のプロパガンダと聖職者たちの世俗権利を尊重する。
原住民社会からの偏見や憎悪がどうあれ、かれらは征服と平穏を優先する。[ 続く ]