「アチェにあった稲魂(前)」(2020年09月15日)

ライター: 詩人・文化オブザーバー、リキ・ダンパラン・プトラ
ソース: 2016年11月14日付けコンパス紙 "Mencari Seumangat Padi"

アチェの古い諺に、「礼拝は信仰の根幹であり、農耕は労働の根幹であるSeumayang 
pangulee ibadat-meugoe pangulee hareukat」というものがある。今ではこの地方であま
り語られていない、そしてあまり実践されていない教えだろう。

多分昨今のひとは、礼拝と農耕を比較の対象にして根幹という対等な位置に並べているこ
とに奇異の思いを抱くかもしれない。農業とは農産品を作り出す生産活動であるという語
義になっている現代農業のイメージでそれを解釈するなら、その奇異の念を解きほぐす鍵
は見つからないかもしれない。

農耕が商品を作り出す生産活動にまだなっていなかった時代の諺に農業の現代コンセプト
を当てはめてもだめなのだ。古代の農耕というのは、ネガティブな影響を避けてポジティ
ブなものを求めるがために、存在すると信じられていた超自然パワーとの交流を行う昔の
ひとびとの活動だったのである。その方法の中には、芸能上演から魔術がかった典礼に至
る伝統的な一連の活動を通して行われる礼賛儀式がある。そこから礼拝の意義が形成され
た。

礼拝の語が性質という面で農耕活動と並列に位置付けられることは、そのコンテキストに
おいて可能になり、上の諺の内容がやっと腑に落ちることになる。疑問は、どうして農耕
が根幹にされるのかということだ。たとえば、根幹が統治行政であってもおかしくないで
はないか。簡単な答えを求めるなら、昔のアチェ住民の生計手段の主流が農業だったとい
うことも言えるだろう。しかし農業がどのように文化の基盤として形成され、長い歴史の
枠の中でその目的を見出すに至ったかということは考えてみる価値がありそうだ。

< 魂の物語 >
アチェの地域が歴史物語の舞台に登場するのは西暦紀元7世紀で、中東のムスリム商人が
風待ちのためにそこに居住したころから始まる。しかし先史時代から農耕文化が存在して
いたのは、紀元前1千5百年ごろに農耕を行っていたオーストロネシア語族の新石器文化
遺跡が東南アジアに分布していることから明らかだ。最新の研究によれば、それはもっと
古い時代にまでさかのぼる。タイの考古学者は7千から9千年前のコメの化石と新石器文
化農耕集落の跡をマレー半島のグアサカイGua Sakaiで発見している。

完新世にマラッカ海峡を作った地学的トラウマの結果、そのころスマトラ北端では新たな
文明が築かれつつあった。最初は海岸部にいたオーストロネシア文化を担うひとびとが内
陸高原部への探査を開始する。それはアチェタミアンAceh TamianのパンカランPangkalan
遺跡やロヤンマンダレLoyang Mandale遺跡が示す初期的農耕から後づけることができる。

植民地時代の農業学者ヴァールデンブルフVan Waardenburgは論文の中で、アチェ人の思
考方法は農耕の影響を強く受けており、その影響は慣習・言語・民話などの日常生活に投
影されている、と述べている。アチェの伝統的農耕コンセプトは太古の魔術的コンセプト
の影響に染まっていて、植物には魂seumangatが宿っていて稲ももちろん例外ではないと
考えられている、というのがかれの見解だ。[ 続く ]