「アチェにあった稲魂(後)」(2020年09月16日)

人間が霊魂つまり生命を持っているのと同じように、稲にもある霊魂を養ってやらなけれ
ばならないのである。稲の霊魂が害を受けたり本体から離れたりすると稲は病気になる。
だからアチェの伝統的農耕における稲作の作法は魂の養成に傾注されることになる。

民話の世界もそれを明瞭に示している。中でも、農耕に関連する他の民話の由来になった
「稲の縁起譚Hikayat Asay Pade」は最初すべての農耕知識が預言者アダムから授けられ
たことを述べている。

それはしかし、単に教えたということばかりか、ドラマチックなできごとさえ付随した。
天使ジブリルは預言者アダムに対して、「大地に稲が育つよう汝の息子をいけにえにせよ」
と迫ったのである。そのできごとを知らない預言者の妻シティ・ハワSiti Hawaは息子を
探しまわる。その息子は種々の民話に、ウンバマニUmbahmani、ヌラミNurami、スルバニ
Seureubani、エチュキEceukiという四つの名前で登場する。母は開墾された畑地で息子の
名前を呼び続けるが、その声に応えたのは稲だけだった。

イスラムには人間のいけにえが稲に変身するアイデアがないので、この縁起譚の元来はイ
スラム渡来以前のものであったことが推測される。稲の由来を預言者アダムの話に焼き直
したのは、原話にイスラム色を持たせようと意図したことの表れであるように思われる。
それは、前イスラム文化に染まっていた民衆の思考をイスラム化させるのに重要な役割を
歴史の中で演じたアチェの民話の機能に沿ったことでもあった。

しかし旧文化の世界にあった神秘主義的な稲と農民の結びつきの観念を伝えるメッセージ
に変化はない。それはこの縁起譚の中の三つのできごとに象徴されている。

まず、天使ジブリルが直接預言者に教えたということ。つまり稲栽培の知識が造物主から
出たものであることをそれは意味しており、その実践は造物主に対する勤めの一部にされ
ている。稲の縁起譚には「神の傍らで農耕を行う者の汗はきわめて尊い」reu'oh badan 
ureueng meugoe, ba Tuhan sidroe sangat meuliaという一節が登場する。もうひとつは
アダムの造物主に対する絶対服従を示すいけにえ。三つ目は、種を得るためにわが身を犠
牲にした息子の親への孝心。


この物語を通じて、種・土地・家族・造物主という四つの主要な観念が描かれている。そ
の四つの相関関係の中で農耕活動が営まれなければならないのである。その四つのものが
稲の魂、つまり農耕活動を作り出すのだ。

現代に言われているところの複合型農業なるものは、われわれの太古の時代から行われて
いたものなのである。その文化的背景を考えるなら、社会の集合記憶の中に埋もれている
稲の魂の回復を通して実現されるようにパラダイムは変えられるべきだ。農業の本質は文
化の継続性の保持を目的にしているのである。破壊することではないのだから。[ 完 ]