「フェーオーセーVOC(2)」(2020年09月18日)

いや、日本語だけは違うのだと言うのなら、かれは言語学習以前のXenophobiaである。そ
の言葉自体が日本人の間におかしな現象を引き起こしている。ゼノフォビアが正しい発音
だと言っているひとは、「英語では」という「述べられていない句」を前提に置いている。

つまりその論者は「外国語とは英語なり」の実践者なのだ。クセノフォビアという発音を
ギリシャ人やイタリア人から聞いてみればよい。外国語が英語だけではないというこの世
の実相を見ることができるだろう。閑話休題。


オランダ連合東インド会社の誕生は1602年で、総合独占会社として作られた世界最初
の民間資本有限責任株式会社であり、当時の世界最大の商社だった。それ以前に東インド
にやってきたオランダの船はひとつの会社に連合する前の、各州の東インド会社の船だっ
た可能性が高いということだ。

VOCは喜望峰から東、マゼラン海峡から西をその独占事業の領域にしたが、総督たちは
喜望峰から(長崎の)出島までという表現をよく使った。この会社は軍隊と軍船を持ち、
他国との外交権と交戦権を持ち、銭貨発行権を持ち、国を代表して他国と条約を結ぶこと
すらできた。


16世紀にVOCの船は延べ1千7百隻がアジアに向かった。17世紀は3千隻。160
2年から1700年までの間、VOCの船でアジアにやってきたオランダ人を主とするヨ
ーロッパ人は30万人を超えた。その後の百年間にその数は倍増した。

オランダ人の東インドへの来航の歴史が始まるのは1596年で、ポルトガル船の航路を
たどって来たオランダ船四隻がその年6月5日にスマトラ西岸に到着した。コルネリス・
デ・ハウトマンCornelis de Houtman率いるその船隊はそれから十数日後にバンテン港に
到着する。14カ月の航海の成果がそれだった。オランダ人の来航はポルトガル人に迎え
られた。それに続く数日間、バンテンの王族がハウトマン船隊に乗り込んで来た。商人た
ちもオランダ船を訪れて、船の甲板は大いににぎわった。オランダ人乗組員のひとりは、
甲板の上がまるでパサルのようになったと書き残している。

最初は友好的な大歓迎がオランダ船隊を覆っていたものの、しばらく経過するとスパイス
購入交渉が思うようにはかどらないことに業を煮やしたオランダ人の暴力的行為が発生し、
オランダ人はならず者という烙印が捺されて歓迎されざる客となり、結局バンテン為政者
はかれらを追い払うことを決めた。

バンテンを出た船隊はスンダクラパに立ち寄ってからスラバヤに向かい、それからマドゥ
ラとバリを回って帰国の途についた。かれらがアムステルダムに戻ったとき、船は三隻に
なり、また多数の乗組員が船中や陸上で没し、中には帰国しないで東インドに留まった者
もあった。

同じヨーロッパ人で長年の取引関係も続いていたオランダ人に表面上は友好的な顔を見せ
ながらも、既得権に割り込んで来たかれらにできるだけ障害を与えようとしてポルトガル
人は東インド地元社会に、オランダ人は海賊だという噂を流した。[ 続く ]