「台湾のジャワ煉瓦(1)」(2020年09月21日)

ポルトガル人は広東にたどり着いたあと、日本との交易の端緒を求めて中国人船乗りを雇
い、日本への航路に踏み込んだ。その航路は広州湾から広東沿岸→福建?州沿岸→琉球→
日本というルートで、このルートは台湾の西岸を三日間走る。

1542年にはじめて通ったその航路で、はじめて目にした台湾の島影の美しさに感動し
たポルトガル人が「美しい島だ」と口走ったことから、ポルトガル語で「美しい」を意味
するフォルモサformosaが台湾の名称として西洋世界に伝わったという話になっている。


だが、この常識がまた覆されそうな話が出されている。台湾アカデミアシニカ研究員の翁
佳音氏と編集者黄験完氏が著わしたDecoding the History of Taiwan from 1550-1720で
著者は、ポルトガル人が美しいと言った島は台湾でなく琉球ではないだろうか、という論
証を展開した。

ポルトガル人がフォルモサと呼んだ島は北西から南東に全長およそ100キロで伸びてい
る島であり、台湾は北東から南西におよそ400キロに渡って伸びているのだから、内容
が合致しない、と著者は主張している。その条件に合う島は多分沖縄であり、台湾に結び
つけたのは後世に起こった別の話ではないだろうかと言うのである。

あの時期に作られたポルトガルの書類のほとんどが台湾を小琉球Lequeo Pequenoと記して
いる。1584年より前に台湾がフォルモサと呼ばれた例は見つからず、1584年にス
ペイン船隊がはじめて台湾海域を航行したときに台湾を「美しい島」という言葉で呼び、
それ以来作られた海図に描かれた台湾にHermosaという名称が添えられたそうだ。


その後世界の航海者はヘルモサを通称にし、オランダが台湾南部に基地を設けた1624
年にその島をFormosaと称することをオランダ人が決めた。

つまりポルトガル人は台湾をフォルモサと呼んでおらず、スペイン人が台湾をヘルモサと
呼び、オランダ人がわざわざポルトガル語のフォルモサを台湾の公称にしてしまった、と
いうストーリーがその内容である。


西洋人としてはじめて台湾を「発見」したポルトガル人は、その島の土地を領有する意志
を持たず、中国のアモイで十分と考えたようだ。台湾の住民とは小規模な交易を行っただ
けであり、台湾に深く関わろうとしなかった。反対に、台湾に領土を築いたのはスペイン
人だ。

スペイン人はセブを占領し、更にルソンを攻略して1571年にマニラを首都に定めた。
そのときスペイン人は、台湾はフィリピンの一部であると宣言した。

スペイン人はメキシコの銀をアジアに持ってきて中国産のスパイス・絹・陶器などを買い
付けた。スペイン船がメキシコへ戻る際はマニラから台湾の花Hua東海岸を経由したあと
北上し、日本市場に手を掛けつつメキシコへの航路をたどった。

16世紀半ばに倭寇が浙江、福建、広東の沿海を荒らしたが明軍に追い出されて台湾に移
っている。その後日本で豊臣政権が確立されると、日本が台湾を占領してマニラ=中国貿
易の障害となる不安が一時期マニラに広がった。だがそれは現実のものにならなかった。

17世紀になって日本に徳川政権が誕生したが、明は日本との交易を喜ばず、結果的に日
本の朱印船は台湾に赴いて福建商人と密貿易を行った。[ 続く ]