「食糧危機(1)」(2020年09月21日)

インドネシアが緑あふれる満ち足りた豊かな島と歌われようが、食糧危機の起こらない保
証などどこにもない。現実にインドネシアのあちこちで食糧危機は発生していた。激しい
時には飢餓がはびこり、民衆はバタバタと死んで行った。

1844年にチルボンの飢餓で何千人もの死者が出た。1848年にドゥマッでは人口3
3.6万人が12人万人にまで減少した。1849年のグロボガンでは、9万8千5百人
あった人口が最後には9千人しか残っていなかった。

歴史書の中にも、われわれはかつて起こった食糧危機のありさまを見出すことができる。
代表的なものは下の通りだが、別の時代に別の場所で起こっていた可能性は否定できない。

< アチェ >
1507年に成立したアチェ王国は米供給を領土外に頼っていた。領土の大部分が湿地帯
だったために領土外の米の産地に依存せざるを得ない。その状況が投機的な利益を求める
人間を招き寄せた。そのような者たちの前でアチェ王国がある期間、なすすべを持たなか
ったことは、奇妙に思われる。

ヨーロッパ人航海者が1602年に見たアチェのありさまを記した報告によれば、アチェ
には米がなく、あっても値段が高すぎる、と述べられている。ヨーロッパ人もそこに商機
を見出して、あちこちから米を持ち込んで来たし、アチェで農耕させるためにインド人奴
隷をも連れて来た。

1605年ごろは状況がさらに悪化している。ブスタヌッサラテインBustan us-Salatin
の書によれば、日照りが続いて飢餓が発生した。それは大災害になったようだ。恐怖と飢
餓がアチェのすべての路上を徘徊し、数十人の奴隷がまだ仕事をしないうちにそこで一挙
に死んだ。

アチェで起こったこの食糧危機は、湿地帯が多いという地理的要因が農耕地の確保を困難
にし、国内食糧生産が最初から不足していたということ、農耕作業という肉体労働への偏
見から農民になりたがらなかった地元民の見栄、国内の食糧危機を自己の金儲けに利用し
たランカヨRangkayoたちの利己主義、統治者たるスルタンの支配権が弱体であったこと、
などにその原因を求めることができる。

その状況は、1607年から1636年までアチェを統治したスルタン・イスカンダル・
ムダIskandar Mudaの登場によって徐々に改善されて行った。国内治政では、スルタンは
ランカヨの放埓な価格操作行為を抑制することにエネルギーを注ぎ、また貧困層に米を分
配した。その分配で利得行為が行われないよう、厳しい監視が行われた。自国領外では征
服地から奴隷を国内に連れ帰って農耕作業を行わせ、あるいは国庫の資産を使って他国か
ら米を買った。国内市場に米をあふれさせることで、国内米価の低下を促進させたのであ
る。

< バンテン >
米の大生産国であるバンテンスルタン国でさえも食糧危機が起こったことがある。167
5年、バンテンの王都住民は一軒あたり平均稲20束しか持っていないという状況が発生
した。それは米不足のために為政者が割り当てたもので、一戸あたり米およそ40キロと
いう、ひと月分の消費量に相当していた。

バンテンの米商人はマタラムなどの他の王国に米を発注した。マタラムからは何度も米が
送り出されたものの、米はなかなかバンテンの王都に届かなかった。どうしてか?バンテ
ンと敵対関係にあるバタヴィアにマタラムの米が運び込まれていたのである。バタヴィア
も食糧危機のさ中にあったのだから。

スルタン・アグン・ティルタヤサSultan Ageng Tirtayasaはイギリス人に助けを求めざる
を得なくなった。どこからであろうが米を運んで来れば、当方は全量を買い上げる。
[ 続く ]