「食糧危機(4)」(2020年09月24日)

街中にあった商店やワルンはほとんど店を閉め、多くの庶民にとって必要な物をどこで買
えばよいのか分からない時代になってしまう。米は生産されているのだから農民から買う
ことはできる。こうして街中からブカシやカラワンへ買い出し人が出かけて行くようにな
った。

米が品薄になると、値が上がる。もっと品薄になればもっと値が上がる。金を持っている
一部の者が、ただでさえ減っている流通量を更に減らそうと、投機的な動きを加えて行く
ために、米価はもっともっと上がって行った。

田んぼへ行ってアフリカマイマイbekicotを集めて食べるひとびとも増えた。しかしbeki-
cotというのはkeong racunと呼ばれるものも含んでいるそうで、毒racunの言葉が添えら
れているように安全が保証されないものらしい。

街中では浮浪者乞食が犬と競り合って残飯をあさり、病死するかさもなければ餓死かとい
う究極のひとびとが増加した。かれらが道路脇や線路脇に死体で転がっているのを見るの
は日常茶飯事になる。なにしろ戦時下なのだ。弾丸や爆弾が飛んでこないからと言ってわ
が身は安全と思ってはならないのだ。

市場から姿を消したのは食糧だけではない。衣服も布も針も糸もなくなった。その結果は
ゴムシートや南京袋・麻袋で作られた衣服。日本語の「ありがとごぜます」をジャワ語で
もじって「残ったパンツだけはなくさないようにしろ」という駄洒落も作られた。

医薬品も姿を消したのは同じことで、人間の身体にダニ・ノミ・シラミが巣食うのは当た
り前の光景になった。医薬品がなくなれば、開業医のすることもなくなってしまう。ドゥ
クンやタビブやシンセたちが大いに受けるようになった。

それでも、日本軍政は日常生活必需品の価格統制を厳格に行った。需給関係が需要過多に
なれば値上がりが起こるという経済原則そのままに、値上げしようとうずうずしている商
人たちとそれを抑えようとする日本兵の駆け引きが展開され、何人もの商人が見せしめの
ためにパサルから憲兵隊本部に連行されて取調べを受け、処罰された。憲兵隊は密告を奨
励し、また諜者を放って報告させた。スパイ行為や密告は物価などよりもむしろ日本軍へ
の敵対行為に関するものが重視されたのも当然で、敵国の宣伝放送をラヂオで聞くことは
厳しく禁止されていたが、サテ屋に扮した諜者が夜に住宅地を回り、不審なラヂオ放送を
聞いている家庭が見つかれば、翌朝その家に憲兵隊による「御用」の訪問を受けた。

戦争前のオランダ時代、2ぺラッ(フルデン)だった灯油は日本軍政期に22.5ぺラッ
になり、タオル・シャツ・靴下・石ケン・糸・綿布などは2〜3倍の値段に上昇した。6
人家族の家では一日1ぺラッあれば日常の出費が終わっていたオランダ時代から、日本軍
政が始まって半年後には3〜4ペラッなければまともな生活ができなくなってしまう。

奇妙なことに、憲兵隊の日常消費生活の監督が厳しさを増していく一方で、市場の物品も
影を薄くして行った。憲兵隊は物資の豊かさを回復させることができなかったようだ。た
だ、そのおかげでインフレ率の暴騰は発生しなかった。共和国独立後のスカルノ政権末期
に起こったインフレ率360%という事態が日本軍政の顔を汚すことはなかったが、日本
軍政末期には買い物をするのに紙幣をざる一杯に盛り上げて持って行くようになる。日本
製ルピア紙幣の値打ちが暴落していたことをそれが証明しているようだ。

< スカルノ >
バンドンの大学生だったスカルノが民族運動活動家の道を邁進しはじめたころ、スカルノ
の関心はプリブミ底辺層の空腹の苦難に向けられた。1932〜33年ごろ、かれはDar-
mokondo、Pertja Selatan、Aksi、Siang Po、Pewarta Deli、Sin Poなどの新聞に書かれ
た社会底辺層の困窮生活の様子を読み、心打たれてその内容を政治的発言の中に盛り込ん
だ。[ 続く ]