「マジャパヒッ王国の米政策(後)」(2020年09月30日) 運河跡の中央部にはチャンディが集中して建っており、また建築資材としての陶器やレン ガが密集して埋もれていたのが発見されている。更にマジャパヒッや中国の銭貨、中国・ タイ・ベトナム産の陶器の破片なども出土していることから、その辺りがマジャパヒッ王 国の首都の中心部だったのではないかと推測されている。この運河建設を物語る古文書は まだ見つかっていないが、水利技術に関する専門家を示す職業名はマジャパヒッ時代に作 られた碑文の中にさまざまに登場している。 ため池はアンジャスモロAnjasmara・ウリランWelirang・アルジュノArjuna山岳地区の北 部に20カ所超設けられ、トロウランにも用水池が多数作られた。現在残っているKolam Segaran、Balong Bunder、Balong Dowoはそれらの一部だ。 マジャパヒッ民衆の農耕生活の様子はチャンディムナッジンゴCandi Menak Jinggoの壁画 に描かれている。馬歓はマジャパヒッの王都が暑かったことを書き残した。トロウランは 低地にあったのだ。洪水の被害を受ける傾向が高かったことをそれは意味しており、マジ ャパヒッ王国が国家事業として水利に重きを置いた必然性がそこにあったようだ。 2014年12月にヨグヤカルタ考古学館がマディウンMadiunのドロポDolopo郡ドロポ村 グラワンNgurawan部落で行った発掘調査で、マジャパヒッ時代の水利施設と見られる遺跡 が見つかった。サカ暦1320年(西暦1398年)の年号が彫り込まれている安山岩で 作られた木製柱の礎石が発見されたのである。 この遺跡は細かい砂の層の上にレンガが20層で積まれているものだ。レンガのサイズは 厚さ7センチ、幅20センチ、長さ42センチで、マジャパヒッ時代に共通のものであり、 遺跡には間違いなく水流があった痕跡が見られると発掘調査団は説明している。 この遺跡からは石像やヨニ像が出土しているし、マジャパヒッ時代の陶器・テラコッタ・ コインや釜・瓦の破片なども見つかっている。コインは中国銭で、当時中国との交易がお こなわれていたことを証明している。 マジャパヒッ王国が作った法律書Kitab Undang-undang Kutara Manawaには農業関連の法 規と罰則が盛り込まれている。それによれば、耕作地を放っておいた農民はその地で生産 されうる稲の総量分を罰金として科されるし、耕作地を狭めたことが判明した農民は死刑 に処せられる。これは夜盗と同じ刑罰が適用されている。 クタラマナワ第260条には、農民を保護する規定もある。耕作地の稲を焼いた者は焼か れた稲の5倍をその土地を耕作している農民に弁償しなければならない。それに加えて王 に2ラクサlaksaの罰金を納めなければならない。この規定では弁償の額がたいへん大き い。たいていの行為に対する弁償額は2倍が普通になっているからだ。 マジャパヒッ王国は米の大生産国になった。国民が腹いっぱい食えるようになるのは当然 の帰結であり、さらにそれ以上の生産分が他国に輸出されたことで国民は繁栄を謳歌する ようになる。ヌサンタラの諸王国どころか、東南アジアから南アジア、さらには東アジア にまで米は運ばれて行った。 「それらを王国の統治機構が行ったのでなく、民衆が自主的に行ったという事実はまった く信じられないようなできごとだ。その陰に民衆の事業に対する統治機構の支持と保護が あったことをそれは容易に想像させてくれる。食糧が国家と国民の生活の心臓であるとい う統治者の認識がそれらを実現させたにちがいない。」マラン国立大学考古学者はそう語 っている。 ハヤムルッ王の在位は1350年から89年までの39年間に及んだ。かれの国家統治の 基本観念が国家を繁栄させ、そしてかれの治政が王国に黄金期をもたらしたのである。 [ 完 ]