「マジャパヒッの祝宴(1)」(2020年10月01日)

中央ジャカルタ市メンテン地区のテウクウマルTeuku Umar通りにあるクンストクリンパレ
イスKunstkring Paleisレストランで2017年11月のある日、滅多に見られない催し
が開かれた。マジャパヒッ時代の料理を再現して舌鼓を打とうというのがその企画だ。

このクンストクリンパレイスはバタヴィアの建築界における画期的な建物であり、はじめ
て鉄筋コンクリートが使われて1913年に完成した。左右二つのタワーに挟まれた本館
の、三つのアーチ型ひさしが張り出している正面ファサードはたいへんに特徴的で、20
世紀初期に開発されたメンテン地区という高級レジデンシャルニュータウンを象徴するシ
ンボルの役割を果たしていた。

バタヴィアのメンテンMenteng地区を開発したデベロッパーのデバウプルフNV De Bouw-
ploegの名前は今でもボプロBoploという地区名称で残っており、デベロッパーの事務所跡
はチュッムティアCut Mutiahという名のモスクになって使われ続けている。

クンストクリン館の建設は、バタヴィアのアート愛好家サークルNederlandsch Indische 
Kunstkringが音頭を取った。このサークルはメンテン地区に造形美術を中心とするアート
センターが建てられることを望み、デベロッパーや行政への働きかけを行った。このサー
クルが絵画・彫刻・建築などといった分野に関心が高かったのは、そのサークルが建築家
モーイェンPAJ Moojenに主宰されていたことと無縁ではあるまい。モーイェン自らがその
館を設計し、デベロッパーは3,249平米の土地を館のために寄贈した。オランダ人は
この館をクンストクリンヘバウKunstkringgebouwと呼んだ。

1914年に東インド総督が列席して開館式が行われてから最初に行われた催事は、東イ
ンド生まれの造形アーチストたちの作品を集めた展示会だった。1925年には東インド
で初の建築デザイン展が開かれて、各地に建てられている東インドの建築デザイナーたち
の力作が世の中にあらためて紹介された。1936年からは、館内の一部の部屋がシャガ
ール、ゴッホ、ピカソなどマエストロの作品の常設展示場にされている。ヨーロッパの美
術館から絶え間なく貴重な大作が東インドに送られ、また送り返されていたということだ。


日本軍の東インド占領後、この館はインドネシア人が掌握してインドネシアアッライスラ
ム評議会Majelis Islam A'la Indonesiaの事務所にされた。昔から反オランダ的であった
イスラム界を原住民コントロールの手綱に使おうとして日本軍政はイスラム界に寛容的姿
勢で臨んだことから、イスラム界が宗教活動のため(それは当然ムスリム民衆の暮らしに
関わっているものだ)に行うことはたいてい容認されたようだ。

インドネシア共和国が独立宣言をしたあと、この館は共和国政府がイミグレーション事務
所として使うようになった。わたしはジャカルタで生まれた子供を日本に連れ帰るために、
その手続きを行ないにこの建物を1977年に数回訪れている。中央ジャカルタ市イミグ
レーション事務所は1993年にクマヨラン地区に移転した。その後休眠状態だった館は、
1999年に民間企業が等価土地交換の形で土地建物を入手した。スハルト大統領夫人が
博物館にするために、それが行われたという話になっている。

日本軍政期以来、この史的遺産である建物は適切なメンテナンスが行われていなかった。
ましてや人間が使わなくなった建物は急速に劣化していくものだ。1998〜99年ごろ
にはすでに化け物屋敷の態をなし、略奪者たちが骨董的品物や資材を盗む一大舞台に変身
した。扉や窓、それらの枠木、ステンドグラス、ランプなど広大な建物の内部に備えつけ
られてあったほとんどの物品が姿を消した。


2003年になって都庁はこの歴史遺産を守ることを決め、オーナーになっている民間会
社から289.6億ルピアで土地建物を買い戻し、その再建を開始した。しかし略奪前の
状態にそっくり回復させるのは至難のわざであり、可能な限り旧態に戻すために物によっ
てはヨーロッパのメーカーに発注されたものもあったが、国産品がある場合は多少品質が
劣ってもそれが使われた。予算を無限に使うわけにいかないのは当然の話だ。およそ50
億ルピアをかけて再建が完了したのは2005年で、建物の使い道についてはオランダ時
代のように美術館にする話が最初は主流を占めていたが、インドネシアにおけるその種の
事業は慈善事業と大差ないことを誰もが経験則で知っており、結局は慰安娯楽事業のため
のコンセッションという道を歩むことになった。[ 続く ]