「マジャパヒッの祝宴(2)」(2020年10月02日)

そこにブッダバー、ラウンジ&レストランがオープンしたのは2008年11月のこと。
美しく飾り付けられた全館内には5百人分の席が用意可能であり、立食形式にすれば1千
人の大パーティが開催できると謳われた。

フランス系のこの企業はアジアへの進出の手始めにジャカルタのこの由緒あるスポットを
使うことに決めたそうだが、インドネシアという国はそう生易しい国でなかったことが明
らかになった。

「ブッダバーとは何事か!」とインドネシアの仏教徒が怒ったのである。インドネシアは
イスラムの国だなどといったい誰が言ったのか?世界文明の歩む道は脱宗教社会だという
コンセプトは世界覇権を手にした者たちの自己中心的な思い込みではないのか?この世界
にいるのは、軽佻浮薄に覇権者の尻について動く民族ばかりではないのだ。世界にいるの
は白人文明崇拝民族ばかりではないということなのである。

インドネシアの仏教徒が繰り返し行ったブッダバー反対デモは特異な宗教感情に包まれて
いるインドネシア社会の同情を集め、ブッダバーは結局インドネシア社会全体の敵にされ
てしまってこの国から撤退して行った。

今この館を使っているレストランはトゥグTuguホテル系列のもので、名称はトゥグクンス
トクリンパレイスであり、ジャカルタに十数年前からオープンしているダプルババやロロ
ジョングランあるいはシャンハイブルーなどの姉妹店に当たっている。


この催しの主催者はナガラクルタガマNagarakertagamaに記された王や高官たちの食事メ
ニューを詳細に調べ、現地で今も使われている食材や調理法と突き合わせて、8百年近い
昔に王者や高官たちが食したものの再現をトライした。

ナガラクルタガマにはハヤムルッHayam Wuruk王が王位に就いたときの様子が描かれてい
る。王はトゥバンTubanやグルシッGresikを巡遊して民衆の声を聞き、訪れた町では盛大
な祝宴が開かれた。地元で作られた料理を地元領主や民衆らと一緒に、王国の首都からや
ってきた大王と高官たちが賞味したのだ。

象や馬を使って大量の料理が祝宴の会場に運ばれ、その行列を兵士と踊り子が取り巻いて
華麗な祭りを演出した。飯とおかず類は大きく山盛りされて、それが現代のナシトゥンプ
ンnasi tumpengの起源になったと言われている。中央に飯の山が作られ、その周囲にさま
ざまな種類のおかずを並べる食事の作法は参会者が好きなものを好きなだけ取って食べる
形式であり、礼儀として高位者から順に並んで開始されるわけだが、一旦開始されると高
位者がまた取りに来た時に低位者の中に混じることになり、高官と一般庶民の接触がそこ
で起こる。現代のナシトゥンプンもまったく同じで、会社の祝宴などでは会社社長が飯の
山の頂上をカットして始まり、その後は無礼講の趣が強まる。

マジャパヒッ時代はヒンドゥブッダ文化であり、もち米から作られたアルコール飲料ブル
ムbremは日常的な飲み物だった。ブルムは夜を徹してひとびとの盃に注がれ続けたに違い
あるまい。飲用ブルムは現在バリ島やヌサトゥンガラでのみ製造販売が続けられており、
ジャワでは固形のお菓子の形になって遺されている。

マジャパヒッ大王の威勢はあまねくヌサンタラを覆い、マレー半島・シアム・ベトナム南
部・フィリピンにまで鳴り響いたのがその時代だったから、領域内各地の文化が融合し合
うための条件ができていたのも確かなことだ。軍指揮官から宰相ガジャ・マダGajah Mada
までもが競って個性のあるメニューを用意し、祝宴の場に持ち込んで来たそうだ。
[ 続く ]