「コメ諜報員(後)」(2020年10月09日)

肥料を用意するためにさまざまな方法が行われた。最初は輸入するしかなかったのだが、
1972年の食糧危機のために世界中の肥料需要が激増し、それに輪をかけてエネルギー
クライシスが世界を覆ったために、尿素肥料の原材料が高騰した上、おまけに輸送コスト
までもが上昇したのである。

政府はその状況を克服するために、ビマス農民に対する肥料供給を二回に分散した。割当
の半分を作付期に、残り半分を作付期終了後にしたのだ。更に肥料の使用が他の作物に流
用されないよう、監視を厳しくした。ビマスとインマスのプロジェクトに参加している農
民にだけ補助金付き肥料が与えられたため、補助金付き肥料の流通も厳しく監視された。
地方部では、肥料輸入者が自分で流通まで行うよう要求された。

< 補助金付き肥料 >
補助金付きと補助金なしの肥料が市場で大幅な価格差になることを報告書は指摘している。
その価格差のために補助金付き肥料は大量に漏洩して他の商品作物に流用された。補助金
を受ける権利を持つプロジェクト参加農民の手に渡らず、農園などの商品作物に使われた
のである。

報告書は十分な食糧を確保することについて、政府の長期オプションは三つあると提唱し
ている。コメの輸入、肥料を輸入してコメの国内生産を向上させる、肥料工場を輸入して
肥料の国内生産を行う、の三つだ。政府は国内に肥料工場を設けることを選択した。その
メリットは量の確保が容易になることに加えて国民雇用が増大することをももたらす。と
はいえ、巨大な投資額になるという短所も持っている。1977年に国内で肥料生産が開
始された。

その努力と並行して、政府は有機肥料の普及をも考えていた。政府は肥料供給量を増加さ
せるために、都市ゴミを原料にする堆肥工場の建設を推奨した。ところが、その方式では
製品があまりにも高くなることが明らかになった。おまけに含有栄養素も低い。こうして
有機肥料生産は村落部での藁や排泄物を使うものに絞られて行った。


この報告書の骨子は食糧(特にコメ)の長期的供給確保をどのように行うのかという点に
ある。少なくとも、第二次五か年計画(1974〜79)のためのストラテジー明細の中
にそれを見ることができる。

民間資本によるライスエステート構想は既に検討されていた。ライスエステートはヘクタ
ール当たり3千米ドル(当時90万ルピア相当)のコストをかけて、5年間にわたる育成
期間を経て行われるものだ。強化プロジェクトがヘクタール当たり2万ルピアしかかから
ないのに比べて、そのコストは天文学的とも言える。

その他にスマトラとカリマンタンで海水の干満する土地の水田利用も考慮された。水田化
の作業は他の土地よりも低コスト短期間でできるため、この構想はきわめて妥当なものだ
ったが、問題は干拓の難しさと生産性の低さにあった。

総体的にこの報告書は、ビマスとインマスのプログラムが全国のコメ生産向上に成功して
いることを語っている。報告書の表現を引用するなら、成果は十分に誇りうるものである。
1969年のヘクタール当たり生産量3.628トンは1974年に4.6トンになった
のだから。

ただこの報告書は、ビマス・インマスプログラムの中で現場での実践に際して起こった諸
問題にまったく触れていない。当時、食糧と農業に関する問題を追及した記者ヌルチャヒ
ヨJA Noertjahjoは自著の中で、地方行政高官たちはこのプログラムの不備不足ポイント
についてまったく語ろうとしない、と書いている。かれらはビマスプログラムの効率がど
うなのかについて答えることができなかった。つまりは、費やされたものの総合計とそれ
によって得られた成果が妥当なものであったのかどうかについて、その天秤の針がどちら
に傾いていたのかは知るべくもないということだったのである。[ 完 ]