「ヌサンタラの酒(終)」(2020年10月10日) ヨーロッパ産高級洋酒を廉く手に入れるのがニセモノ作りの鉄則だ。その標的にされたの がコニャック、バルセロナ、ポートワインだった。ニセモノはアルコールになる糖分を減 らし、水と塩分を増やす方法で作られた。作られた商品は華人の店で販売され、その廉価 低品質の贋物輸入品はたいてい、プリブミであるプリヤイたちが生活上で見栄を張るため の小道具に使われて消費された。 1898年に既存法規の穴を埋めるための追加規定が定められた。生産工程・設備・販売 ・経営者・工程監督者・徴税などに関する詳細規定だ。だが政府の法規が十分に社会を統 制しきった実例は今も昔も変わりなく、手に入らなかった。 政府は1918年にアルコール撲滅コミッションを編成して、社会でのアルコール飲料悪 用の捜査と撲滅に立ちあがった。このコミッションの委員長にはポノロゴの県令クスモ・ ユドPTA Koesoemo Joedoが任じられ、警部補・宣教師・軍人・プリヤイ・社会団体役員な どが委員になった。1922年のアルコール撲滅コミッション報告書は、ミラスが世の中 で広範に消費されていることを物語っている。バタヴィアでは、製造・販売・消費のすべ てに渡って既に不安を抱かせる段階に達しており、闇売買の中心地のひとつがスネン地区 であると述べられていた。 植民地政庁はカッツJ Katsの著になるBahaja minoeman keras serta daja oepaja mendjaoehinja: teroetama bagi Hindia-Belandaと題する書物を刊行した。ミラスに関す る詳しい説明とその長所および害悪を述べたこの書物は1915年に行われたサレカッイ スラム会議Kongres Sarekat Islamの「政府はプリブミに対して禁酒令を定めよ」という 決議を引用している。 プリヤイがヨーロッパ産リカーを飲むことを権威と見映えのツールに使っていたのだから、 一般のムスリムプリブミ層も競ってビールを飲んでいたにちがいあるまい。19世紀末の バタヴィアには、シママンZimmermannが輸入するビンタン印のクパービールKupper bier、 ディットマンW Dittmanが輸入する馬印ビール、ドイツのベック社Beck & COが輸入する鍵 印ビールBeck's Koentji Bierなどが市場を賑わしていた。 バタヴィアでデ・クローンDe Kroonがビールの生産を開始したのは1886年5月6日で、 日産3千ボトルの生産能力を備えていた。現地生産品は輸入品の半額で販売可能と目され ていたが、5年間の生産の後、1890年に倒産した。消費者の嗜好の点で輸入品に勝て なかったようだ。 1930年、蘭領東インドのビール輸入は1,400万リッターで、ドイツ産1,040 万、オランダ産268万、日本産79万という内訳だった。1931年には1,087万 リッターに低下し、ドイツ産748万、オランダ産207万、日本産52万。1932年 には総計が803万、ドイツ産357万、オランダ産235万、日本産115万と平準化 に向かう。1933年上半期はドイツ産92万、オランダ産89万、日本産200万と顕 著な逆転劇が起こった。 1929年、フランスの銀行家の息子がオランダのハイネケンHeinekenビールにジャワで のビール生産に関する相談を持ち掛けた。ハイネケンはそれに協力して現地調査を行い、 スラバヤが生産拠点に適しているとの結論を出した。 ガグルNgagel地区の土地が買収され、1931年11月に東インドビール会社Nederlandsch -Indische Bierbrouwerij Maatschappijが発足した。この工場ではヨーロッパの伝統的な 醸造方法でなく熱帯地方に適した方式が採用され、製品はヤファビールJava Bierの名前 で販売された。しかし伝統的醸造方法にはかなわなかったようだ。ハイネケンは徐々に東 インドビール会社の株式を買い集めて大株主になり、最終的にその工場のテコ入れを行っ た。 1937年、会社名がハイネケン東インドビール会社Heineken's Nederlandsch-Indische Bierbrouwerij Maatschappijに改称され、ハイネケンのブランド名と星印のアイコンが製 品を飾り、ハイネケンはオランダから東インドへの輸出を全面停止して現地製造に切り替 えた。それが現在インドネシアで一番人気のビンタンビールの元祖である。現在の会社名 はPT Multi Bintang Indonesiaとなっている。[ 完 ]