「ジャワの歴史はコメの歴史(後)」(2020年10月13日) イギリスがジャワ島を領有していた時代、ラフルズ総督は「ジャワ島ほど民衆が十分な食 を得ている国は稀だ。一日の消費量である1カティkatiのコメを得ることのできないプリ ブミはめったにいない。」と書いている。かれの筆になるHistory of Javaの中には、稲 耕作に使われる道具類が細かく説明されている。 ヨグヤカルタスルタン国では、コメが筆頭輸出商品になっていて、タバコ、バティッbatik、 織布などがそれに続いた。それらの諸記録とは別に、農耕の女神であるデウィ・スリDewi Sriに対する農民の信仰がヌサンタラにおける民衆生活にとってのコメの位置付けをはっ きりと示している。今日いまだに、農民のデウィ・スリに対する祝祭儀式は各地で続けら れている。 デウィ・スリ説話はジャワの伝統文芸作品のひとつをなしている。そこに物語られている のは、天上から下界に降りて来たデウィ・スリ女神が稲の苗を人間に与え、それがジャワ 人の主食になったというものだ。デウィ・スリは農耕の守護神として人間生活を支配する 神秘的存在と考えられている。 < 貧困 > ファン・デン・ボシュJohannes van den Bosch総督の栽培制度以来、19世紀中盤以降の 稲作農民の物語は悲嘆に満たされるようになった。水田が商業作物用農園に転換されたこ とによって、チルボンをはじめとして、あちこちで飢餓が発生するようになったのである。 19世紀以来今日に至るまで、ジャワのイメージは貧困と停滞に覆われている。ジャワ島 には細分化された狭い土地にしがみついている何百万人もの農民と人口稠密な都市部で生 活のために闘っている何百万もの肉体労働者が住んでいる。1930年の経済危機後も飢 餓の報告は再発した。 ヴェルトハイムWF Wertheim教授はかつてその状況を形容して、ジャワの不均衡は拡大の 一途であり、ふたが破裂するのを待つばかりだ、と述べた。しかしクリフォード・ギアツ C Geertz教授はジャワ農民について、貧困をシェアするのに慣れているジャワ農民は爆発 を起こさず、退化するだけだろうと述べている。土地を持たない貧困農民が悲惨に満ちた 暮らしに適応してジャワの村落部で生活を維持することができるのかどうかについて、ク ンチャロニンラ教授はかつて、その研究がなされるべきだと表明したことがある。 < 農耕社会 > 過去や現在の農民の状況がどうであれ、ジャワ島は米作社会の歴史をたどってきた。ジャ ワ人の祖先が農耕民族であったことは、先祖代々のひとびとの名前がどんなものであった のかを調べれば一目瞭然だ。 Ponimin, Parjiman, Mujinem, Mujirah, Parijanなどといったジャワ人の名前は農耕社会 と密接なつながりを持っていたことを示している。かつてある学者がジャワ人の名前につ いて調査を行ったことがあった。そして農耕集落に関連付けられる名前がいくつもあるこ とが分かったのである。ジャワ社会の歴史を営々といとなんできた農民を尊敬し保護する 理由がわれわれにはあるのだ。[ 完 ]