「農業女性化の矛盾(後)」(2020年10月15日)

貧困家庭に生まれた女子は十分な学校教育すら受けさせてもらえず、結果的に文章を読む
習慣も能力も発展しないまま成長してきた。たとえ融資が行われたとしても、誰かが教え
てくれなければその情報を知ることはないかもしれない。それがわかったとしても、いざ
融資の申込書を書く段になって、自分で用紙に記入することができないかもしれない。

障害はもっとある。女性が事実上の戸主であっても、KK(家族証明書)に夫が書かれて
いるなら、いくつかの銀行は女性への融資に対して蒸発した夫の同意書を要求するのであ
る。長男を代行者にすることができたとしても、次の問題は融資に対する担保だ。

たとえ土地持ち農家であっても、かれらの耕作地について土地権利証書を持っている者は
めったにいないのだ。国有銀行が農民支援のための融資を行うとき、銀行側もそれらの難
関を軽減させようと骨を折る。現実性のない、ただ気持ちだけで換金価値があるなどとは
信じられないようなものであっても、融資が降りることはある。目的が目的であるだけに、
四角四面なことを言っていては実績が上がらなくなってしまうのだから。

公的融資に障害が多すぎることが、かの女たちを私的融資者の元に近付ける結果を招く。
私的融資者も女性客を好む傾向が高い。女性は律儀に返済を行ってくれるからだ。


経済開発が女性をマージナル化している現象は様々に語られているが、それを改善させる
動きはなかなか見られないようだ。農業分野におけるジェンダー問題は昔からほとんど変
わっていない。農業における女性の経済貢献度について社会は、女性を相変わらず劣位に
置くのである。

アフリカ・中南米・アジアなどで見られる農家の男女作業分担は明確に分けられている。
その分割を根拠にして男女の労賃較差が出現する。現場から男の姿が減少しても、その較
差は影響を受けない。朝から昼まで行われる施肥作業の労賃は女性に対して7千5百から
1万ルピアになっているが、男性が行えば1万2千5百ルピアが支払われる。作業自体に
何の違いがあるわけでもないというのに、男性は女性よりも高額をもらわなければ承服し
ないのだ。男性が戸主だからという理由では決してない。男は自分の力が女より強いと考
えているためだ。女より低い賃金を与えられたら、男は自分が侮辱されたように感じるの
である。だから女性がいくら男女同権を要求しても、男が同権を拒むのだから始末に負え
ない。そんな状況下で女性戸主になれば、その負担たるやたいへんなものになってしまう。


アチェではDOM時代に男たちが身の危険を感じて村から逃げた。残された女たちは生計
を支えるために休耕地を探して遠くまで歩くようになった。休耕地を耕作して収穫が上が
れば、その分け前が自分の手に入る。しかし同じような身の上の女たちが大勢いるのだか
ら、休耕地は他の女が先に手を付けてしまうことも起こる。それが遠くまで探しに行かな
ければならない理由ひとつになっている。

戸主女性活性化プログラムでは、各地でかの女たちが自立できるようなプログラムを地元
の状況に応じて開発し、その実践を指導している。カラワンでは20人の女性戸主を集め
てグループを作らせ、参加者の投資とプログラムからの融資で1Haの土地を借り、そこ
で農作業を行わせている。自分がその土地で働いた作業に応じて自分たちの拠金から賃金
が払われる。そして収穫が得られたとき、収穫の売上が投資額に応じて分配されるのであ
る。

かの女たちが小作農を続けていれば、そんな収益は決して手に入らない。更に、自分たち
の仕事とそれが生み出す成果への所有意識も、小作農であれば決して育たないものだ。貧
困農民が置かれている構造的な貧困状況を乗り越えるひとつの手がかりがそこにある。
政府のプログラムがこのような形を取れば、国の食糧生産への貢献と同時に、貧困撲滅に
も効果を及ぼすだろう。今起こっている農業の女性化は女性にさまざまな負担を背負わせ、
家族の福祉と国民の将来に深刻な問題をもたらす可能性を秘めている。だからこそ、政策
決定者は女性の農業への貢献度について実態をもっと真剣に把握しなければならない。食
糧確保と貧困撲滅の行政プログラムは女性の蒙っているジェンダー差別を解消しながら国
民福祉向上の道を目指さなければならないのである。[ 完 ]