「ヌサンタラのスイス人(1)」(2020年10月16日) 1876年、チューリッヒの北でドイツとの国境にある町ハラウHallauでハインリッヒ・ ズーベックHeinrich Surbeckは生まれた。1895年から1900年までチューリッヒテ クニカルカレッジで学んだハインリッヒは、化学技術学士号を得たものの肺の病を患って 1902年に北スマトラの山岳部に向かった。その時期のかれの足跡はよく分からない。 だが空気の澄んだ高原地帯で勤労にいそしむ日々を送っている間に、かれの病は完治して しまったようだ。 1906年、かれはアサハンのグヌンムラユGunung Melayuにガンビルgambirの工場を作 った。ガンビルというのはカギカズラ属の植物で、カテキンやタンニンを含んでおり、葉 や枝から湯に浸出させたものを凝固させて作る。 インドネシアで太古からの習慣になっているシリを噛むときに使われてきたが、化学技術 の発達によって医薬素材としての効能が認識され、胃炎・下痢・傷・やけど・また口内を きれいにするといった用途に使われている。インドネシアでの工業生産はほとんどが西ス マトラ・リアウ・南スマトラ・ブンクル・西カリマンタンで行われ、国内消費以外にイン ドやシンガポールに輸出されている。 ガンビル工場が稼働を開始するとかれはプマタンシアンタルPematang Siantarに移り、発 電所、ホテル、そして別の工場をそこに設けた。NV Ijs Fabriek Siantarと命名されたこ の工場では、製氷と飲み物が生産された。かれはさらにパダンシデンプアンPadang Sidem- puanにも進出して発電所と工場を作った。 1916年に作られたシアンタル製氷工場で生産された飲み物は炭酸飲料とマルキサmar- kisaの果汁で、マルキサはMarquisa Sapの商品名が付けられて国内主要都市からスイス・ オランダ・ベルギーにまで輸出された。 1970年代前半にジャカルタのメスでよく出された飲み物のひとつにメダンのマルキサ シロップがあったのは、ひょっとしたらその知名度によってマルキサとメダンがジャカル タのひとびとの深層意識の中で結び合わされていたせいかもしれない。インドネシアのい たるところで旺盛に繁茂するマルキサの樹がメダン特産物であるはずもなく、古い時代に マルキサの商品化がメダンで行われたことがずっと後まで尾を引いていたのではないかと いう気がわたしにはする。 あのころ、マルキサはメダン、サラッsalakはバリというのが通り相場になっていて、メ ダンやバリに出かけるひとはたいてい通り相場のお土産を頼まれたものだが、今どきそん な地元特産物の話をしても、地元民の間ですら真に受けるひとはいないだろう。 炭酸飲料の方はBadakのブランドが付けられて北スマトラ地方からジャワ島にまで販売網 が広がり、一世を風靡した。最盛期には月産3万5千クレートがスマトラとジャワの販売 網に流されている。コカ・コーラが東インドに入って来たのは1927年であり、バタヴ ィアで現地生産が開始されたのが1932年のことだったから、バダッはたいした競争相 手のない大平原をその名のごとくまっしぐらに突進していたにちがいない。 ズーベックがプマタンシアンタルに工場を作ったのは、氷のための良質の水を得る面で利 点があったことに加えて、周辺エリアまで含めたこの高原地帯にたくさんの農園が作られ ており、裕福な階層の生活圏が形成されていたのだから、その旺盛な消費パワーを当て込 んだのも理由のひとつと見られている。[ 続く ]