「ヌサンタラのスイス人(2)」(2020年10月19日)

バダッ印ソーダ飲料は、ソーダ水に始まってオレンジ・グレープ・サルサパリラsarsapa-
rilla味のバリエーションが生産された。地元のプマタンシアンタルやメダンで、バダッ
炭酸飲料の愛好者はいまだにたくさんおり、かれらの間ではサルサパリラがもっとも好ま
れ、ひとびとはそれをサルシと短縮して呼んでいる。

サルサパリラというのは中南米原産の植物で、19世紀に米国で飲み物に使われて普及し
た。ヨグヤカルタの王族貴族たちはこのソーダ飲料をジャワコーラと呼んだそうだが、サ
ルサパリラ自体をジャワ人はサパレラsaparellaと発音した。ルートビアーroot beerにも
使われているそうだ。

ジャカルタではすでに炭酸飲料マーケットから脱落した印象のあるバダッだが、ムアラカ
ランのレストランに置かれているのを見たと語る工場関係者もいる。

日本軍政期に入っても、この製氷工場は従来通りの形で生産を続けた。日本軍から監視官
が派遣されて常駐したものの、工場はそれまで通りの形態が維持された。


共和国独立宣言のあとオランダの復帰が開始されると地元青壮年が反オランダ武力闘争を
起こし、ズーベックはそのターゲットにされて1945年に殺された。ズーベックのふた
りの子供はなんとか難を免れて、ヨーロッパに避難することができた。

その子供のひとり、1909年にグヌンムラユで生まれたリディア・ロサ・ズーベック
Lydia Rosa Surbeckがプマタンシアンタルに戻って来たのは1947年のことだ。ズーベ
ック一族が不在の間も工場は操業を継続しており、戻って来たリディアに経営の手綱が渡
された。その後リディアはプマタンシアンタルでオットーというオランダ人と結婚した。

オットーとリディアの夫婦が工場経営に奔走しているとき、共和国政府のオランダ資本接
収の動きが始まる。オットーとリディアは工場経営からすっぱりと身を引き、1959年
に大番頭格のエルマン・タンジュン氏に工場経営をゆだねた。夫婦は1963年までイン
ドネシアで暮らしていたが、最終的にスイスに移って新たな生活を始めている。

エルマンは1938年に17歳でこの工場の平社員として入社した叩き上げの人物であり、
その後ハインリッヒの側近のひとりにまで伸びあがった。エルマンにとっては、たとえ経
営をゆだねられたとはいえ、工場資産はズーベック一族のものだという考えが頭から離れ
なかったに違いあるまい。


バラッ通商会社のオーナーであるユリアヌス・フタバラッ氏と知り合った時、エルマンは
ユリアヌスに工場売却の話を出してみた。ユリアヌスは興味を示した。エルマンは密かに
オットーから売却に関する指示をもらって交渉を進め、1969年に売却がなされたので
ある。支払いは1971年に完済して、工場オーナーはユリアヌスに代わった。

会社名はPT Pabrik Es Siantarとインドネシア語化されたが、エルマンは1987年ま
で工場経営の采配を振るった。そのあとはユリアヌスの息子が工場経営を受け継いでいる。

会社名が変更された後も、この工場はプマタンシアンタルの産業界を代表するほどの地位
にあった。プマタンシアンタルの町への電力供給も自前の発電所から行われた。町の映画
館は工場に敬意を表して、7つの座席を工場用の貸し切りにし、会社名を書いて一般客用
とは別扱いにした。工場から座席を使うという連絡が入れば上映時間は無視されて、工場
関係者がやってくるまで映画は始められなかったという話だ。

バダッ炭酸飲料の生産は今日まだ続けられているものの、生産量は最盛期の半分に低下し
ている。製品バリエーションは炭酸水とサルサパリラだけに絞られた。炭酸飲料業界はさ
まざまな逆風を乗り越えるために、針路を模索している状態だ。[ 続く ]