「コメ自給の夢(前)」(2020年10月19日)

ジャワにおける1960年代の構造的な農業の後退を表現して、クリフォード・ギアツは
農業インヴォルーションinvolutionとそれを呼んだ。しかしそれは、農民を常にオブジェ
クトの立場に置いているわれわれの農業セクターにおいて、いまだ定説の位置付けを得て
いない。

米国の人類学者クリフォード・ギアツのジャワで起こった農業後退に関する研究が、イン
ドネシアに化学肥料・殺虫剤・単一栽培・灌漑・機械化に依存する農業強化という緑の革
命をもたらす要因になった。インドネシアでその革命はBimas(Bimbingan Massal)とInmas
(Instruksi Massal)というものに翻訳され、インマスはこれまでの最大のコメ輸入国をコ
メ自給国に変貌させることに成功した。1984年に示されたその実績によって、スハル
ト大統領は1985年に国連FOAからの表彰を受けたのである。

とは言っても、長続きしなかったその成功は農民の苦難の上に構築されたものだったので
ある。インドネシアは1990年から再びコメの輸入を再開した。その事実が長続きしな
かったこの成功譚の内実を物語っている。


これは東ジャワ州トゥバン県ウィダン郡チョンプルン村に住むひとりの農婦スラシさん4
5歳の物語だ。1960年代末から村に入った実地指導員の激しい勢いに煽られて、スラ
シは昔から続けて来たマルクティ種の陸稲栽培からIR種の水稲栽培に切り替えることにし
た。

かの女の一家は村に伝統的に伝えられてきたマルクティMarkuti陸稲を昔から栽培し、そ
れを糧として暮らしを立てて来たのである。かの女は語る。
「指導員はIRを持ってきました。収穫量が大きく、寿命が短いから年二回植えることがで
きる。マルクティは収穫までに5カ月かかる、と言って。」

マルクティは水供給が自然のままでよい。灌漑のことなど何も必要ない。IRを植えるなら
ソロ川Bengawan Soloから水田に水を引いてこなければならず、その運命はソロ川の水量
に委ねられることになる。スラシは飼っていた牛を売り、ソロ川から3キロほど離れた田
に水を引くために、パイプとポンプを購入した。

肥料というものも、はじめて扱うようになった。「マルクティは肥料なんかいらないんで
すよ。種をまいて待ってりゃ、5カ月後には収穫できました。その後はずっと収穫が得ら
れます。そうやって一年ごとに種まきをするんです。」


IRの収穫量はもちろんマルクティよりはるかに大量だが、そのために肥料を大量に注ぎ込
む。ジャワにおける稲作強化に関する種々の調査は、土地の生産性が二倍に向上したこと
を報告した。だがそこには、投下されたコストとの対比が示されていない。生産性の向上
が生産コストに比例していたことを表立って指摘する声はなかった。

農民が元々持っていたものを自立的に利用する機会は、すべてが外からもたらされたこと
によって消滅し、農民の自立性は失われた。おまけに激しい生産コストの増大が農民の経
済力を上回るものだったから、農家の経済が貧困に向かうのは明白だったのである。

家畜から得られる肥料は使われなくなり、賃貸しのトラクターを使い、田への給水のため
に発電機も必要になった。それをするために農民の中には借金を余儀なくされる者も出て
来た。他面では、不作のリスクも大幅に上昇した。単一作物の大量栽培は害虫や害獣の大
量被害を受けやすいことが明らかになったのだ。

1990年代以来、コメ自給が不安定になって外国からの輸入が再開されるようになると、
スラシの経済生活は悪化の一途をたどった。それは数百万の農民たちと同じものだった。
補助金付き肥料はかれらの現場にあまりやって来ず、価格も流通者に操作された。その一
方で、収穫時にはモミ価格の暴落が起こった。農民インヴォルーションが起こったのであ
る。[ 続く ]