「ヌサンタラのイギリス人(1)」(2020年10月21日)

ヤン・ピーテルスゾーン・クーンJan Pieterszoon Coenによるバタヴィア建設の歴史には
最初からイギリス人がからんでいた。元々両者はバンテンに商館を開いてビジネスを行っ
ていたが、オランダ人が商館をバンテンからジャヤカルタJayakartaに移したとき、イギ
リス人もオランダ人の後を追ってジャヤカルタでのビジネスをも取り込もうとした。イギ
リス人はバンテンの商館を維持したまま、その拡張を目指したという違いだ。その時期、
両者はすでに武力抗争状態に入っていた。

当時のジャヤカルタの街はチリウン川(今のカリブサール)とクルクッKrukut川にはさま
れた洲の上に作られており、オランダ人はチリウン川東岸のジャヤカルタの街の外に商館
建設の許可を得て建築を開始する。その一帯はプチナンPecinan(華人居住区)になって
いた。

最初に建てられたのは掛け値なしの商館であり、しかも十分な建築資材が得られなかった
ために見すぼらしい小さいものしかできなかった。それを商館だと言いながら実際には城
kastilに改築したのがクーンであり、かれのその行動は腹の中でアジアにおけるVOC商
業帝国の野望が既に固まっていたことを証明するものだろう。


ジャヤカルタの支配者はオランダ人と抗争状態に入り、後追いでやってきたイギリス人と
同盟を結んでオランダ人に対抗した。そのためにイギリス人はチリウン川西岸のジャヤカ
ルタの街の中に商館建設の許可を得ている。そして川をはさんでカスティルと対面してい
る、現在のVOC造船所の跡地にイギリス商館の建設を開始したのである。

イギリス人も商館と言いながら頑丈な建物を建設して大砲を置いた。戦闘の際の陣地が意
図されていたのは明白だ。だがその陣地が完成する前の1618年12月23日夜に、オ
ランダ人はカスティルから船でカリブサールを渡って夜襲をかけ、未完成の建物を燃やし
て灰にした。1618年12月23〜25日の間、ジャヤカルタの随所で市街戦が繰り広
げられた。しかし圧倒的な兵力差のために、オランダ側はカスティルでの籠城を余儀なく
される。

海上でもトーマス・デイル率いるイギリス側の優勢な軍事力のためにオランダVOC船隊
は叩きのめされて、クーンがマルクに逃走する結果になった。その当時VOCの本部はマ
ルクに置かれており、オランダ側の軍事力はマルクに集中していたのである。

イギリスに反撃するためクーンはマルクから十分な軍船と陸戦部隊を連れてジャヤカルタ
に戻って来た。そして海上のイギリス軍を打ち払い、陸上でもイギリスとジャヤカルタの
連合軍に打撃を与えてオランダの立場を回復させた。そうこうしているうちにバンテン軍
がジャヤカルタの治安を掌握して戦争状態は終わりを告げた。ジャヤカルタはバンテンの
属領なのであり、自国内の騒乱を属領だからと放置する支配者はいない。


こうなればイギリス人はジャヤカルタから引き上げざるを得ない。イギリス人はバンテン
での商売に専念することにしてジャヤカルタを去った。クーンにとっては思うつぼだ。状
況が落ち着いたあとVOC軍はバンテン軍への攻撃を開始し、ジャヤカルタの街中からす
べての原住民を追い払うと町のすべてを焼き払い、そこにアムステルダムに似せてヨーロ
ッパの街を建設した。

そこにいたのがクーンでなかったなら、あるいは捲土重来してきたクーンがイギリスとの
戦闘に敗れていれば、インドネシアはイギリスの植民地になって今頃はコモンウエルスの
一員の道を歩んでいたかもしれない。[ 続く ]