「モーイェインディと水田風景(前)」(2020年10月21日)

実った黄金の稲穂が前景を埋め、遠景にはかすみがかった山なみが連なる。ジャワの風景
画の中でステレオタイプの構図だ。小学校で生徒に絵を描かせるとき、昔からそれが教え
られてきたし、今でもまだそれが続けられている。現実に、インドネシア人の多くはその
構図を好む。ジャワ島のどこの田舎にもあった風景に、自分の幼いころの郷愁を重ね合わ
せるのだろうか。

水田のパノラマ風景は古代から描かれていた。9世紀に建てられたチャンデイボロブドゥ
ルBorobudurにも水田のレリーフがある。水田で二頭の水牛が引く鋤の柄を左手につかん
でいる農夫の姿が描写されているのだ。

ジャワ島南中央部を本拠地にしたと見られている古代マタラムMataram王国時代やジャワ
島東部に中心を置いたマジャパヒッMajapahit王国時代に作られた種々のカカウィンkaka-
winにも田園風景の描写は登場する。しかし残念ながら、カカウィンは王宮文学の産物で
あることから、華麗な王宮生活がメインに描かれていて、田園風景は表面的な描写でしか
ない。

カカウィンに登場する水田風景は、王が王宮から外出してどこかへ行くときに水田の脇の
道を通り、そのときに水田で働いている者たちや水牛に乗っている子供、あるいは米蔵な
どを目にする姿の背景に使われている。マジャパヒッ時代の水田風景は、その時代に建て
られたチャンディの壁画に見ることができる。当時の水田風景はそれらの壁画が示すよう
なものだったのだ。広がる水田と小屋を描いた石碑もあるし、水田にヤシの木を配したも
のもある。水田にヤシの構図はいまでもジャワで実際に目にすることができる。王国が開
墾を行って水田耕作を民に行わせた話も、ヌガラクルタガマNegarakertagamaをはじめと
していくつかの書物に見ることができる。


ヨーロッパ人がアジアにやってくるようになってから、水田のパノラマがかれらの見聞記
に記載されはじめた。初期の旅行家マルコ・ポーロやニコロ・コンティに始まってたくさ
んのオランダ人やラフルズT.S.Rafflesに至るまで多様なひとびとがジャワ島の話を書き
残した。それらの話はヨーロッパのひとびとにため息をつかせたのである。

バタヴィアにやってきたVOC社員のための観光の手引きが1786年に作られているが、
これは観光客誘致を意図したものとは違う。広がる水田を擁するジャワ島のエキゾチック
なパノラマが売りに出されたのは、東インドの治安情勢が平穏さを増した19世紀終わり
ごろのことだった。ヨーロッパで観光産業が盛んになり、東インドへのパッケージツアー
も売り出された。

ジャワ島への観光客誘致を煽るために水田のパノラマが使われるのは当然の成り行きだっ
たようだ。業界は東インドをモーイェインディmooie Indieと呼んだ。「美しきインディ」
のシンボルイメージのひとつに使われたのがこの水田風景だった。モーイェインディ観光
は大いに当たった。ジャワ島のエキゾチシズムはヨーロッパ人の興味を誘い、ヨーロッパ
⇔ジャワ間の客船の往来は頻度を増したのである。

ジャワ島のエキゾチシズムに種々の賛辞が捧げられた。ジャワ島関連の古い書物が再出版
されて世間に情報を提供し、また新たに書かれた書物も画像が加えられて読者のイメージ
を刺激したことから、ジャワを自分の眼で見てみたいという欲求がひとびとを旅行代理店
に向かわせた。1897年にシドモアER Scidmoreが書いたJava, Garden of the Eastや、
1930年に出されたポンダーHW Ponder著のJava Pageantにはジャワの水田風景の画像
が掲載されている。[ 続く ]