「ヌサンタラのイギリス人(2)」(2020年10月22日)

1685年、イギリス人がスマトラ島南部西岸のブンクルBengkuluに取り付いた。VOC
は1664年にそこに駐在員を置いたのだが、6年後に駐在ポストを閉めた。その地で得
られるものは駐在員を置くだけの価値がないと判断したようだ。とはいえ、VOCの船は
時によってそこに立ち寄っていたから、まったく等閑に付していたわけでもない。

イギリス人はそのチャンスに乗じた。1685年にイギリス東インド会社EICの船がや
ってきて現地の状況を調べ上げると、地元スルタンとの交渉に入る。北からアチェが覇権
を南に拡大していた時期であり、16世紀と17世紀にアチェとブンクル間で戦争が行わ
れている。

1695年にイギリス側が商館開設・コショウ売買独占・裁判権などを手に入れる内容の
条約が結ばれ、イギリスは支配を内陸部へと広げて行った。イギリス人はブンクルをベン
クーレンBencoolenと呼んだ。しかし原住民反乱が頻発したため、イギリスは1718年
にマルボロ要塞Fort Marlboroughを建設して防衛力を高めはしたものの、1719年の反
乱の結果、ブンクルの将来性に見切りをつけて全イギリス人がそこから退去した。

イギリス人がブンクルに戻って来たのは1724年で、内容を軟化させた条約をその年4
月にスルタンと再度交わしている。それからちょうど100年後の1824年3月17日、
イギリスとオランダの間で領有地の交換が行われた。それぞれが支配している面上にある
相手の点を交換して、一面を完ぺきに自分のものにしようというのがその目的だ。その結
果、ブンクルはオランダが手に入れ、オランダはマラッカをイギリスに譲った。


ナポレオン戦争でヨーロッパが激動に見舞われ、オランダ本国がバタヴィア共和国になっ
てフランスにすり寄ったあと、ナポレオンは弟を国王にしてオランダを属国にする。弟の
失政でナポレオンがオランダを併合し、そこをフランスの一州に変えたとき、オランダの
海外領土を奪取する公然たる理由をイギリスはつかんだ。海外覇権におくてのフランスは
イギリスに赤子の手をひねられてしまうことになる。ジャワだけでも死守しようと試みた
ものの、頼みの綱のダンデルスをフランスに呼び戻してしまってはアリの一穴が起こるし
かあるまい。

イギリス東インド会社インド総督のミントー卿は1807年に、インド洋のフランス=オ
ランダ権益を総なめにすることを計画した。モーリシャスMauritiusからジャヴァJavaま
で、がかれのスローガンになった。

サミュエル・オークマティSamuel Auchmuty中将指揮下のイギリス東インド会社ジャワ島
進攻軍は大型軍船4隻、フリゲート14隻、スループ7隻、クルーザー8隻、輸送船57
隻に1万2千人が分乗してカルカッタとマドラスを発進した。この一大軍事行動は大英帝
国がアジアで行った史上最大規模のものだった。もちろん、第二次大戦を除いてはという
ことだ。第二次大戦までその記録は破られることがなかったのである。

この大船隊はまずペナンに達してから南下してバンカ島に立ち寄り、更にジャワ海をジャ
カルタ湾へと押し出して行った。イギリス人はバンカ島をセントヨークSt York島と名付
け、ムントッMuntokの町をミントー卿にちなんでミントと呼んだ。地元民の中にその町
をMintoと呼ぶひとがいまだにいるそうだ。[ 続く ]