「ヌサンタラのイギリス人(3)」(2020年10月23日)

イギリス軍は1811年8月4日夜間にバタヴィアから15キロほど東方のチリンチンCi-
lincing海岸に上陸を開始し、全軍の上陸が完了したのは8月7日だった。完璧な無血上陸
だ。前衛部隊は既に海岸沿いを旧バタヴィア城市に向かって進軍しており、続々とダンデ
ルスが見捨てた過去の都に入って行った。ダンデルスによって城壁が撤去されてあった旧
バタヴィア城市にイギリス軍は難なく進入し、バタヴィア市庁舎Stadhuysに軍司令部を置
いた。

フランス=オランダ側は北岸部の住民を安全地帯に移動させており、退避命令に応じない
原住民には飲用水を余分に持たせないようにした。敵兵をどうやって苦しめるかは戦略の
基本だろう。

イギリス軍はたいして間を開けずにヴェルテフレーデンへの攻撃を開始する。モーレンフ
リート沿いの道を騎馬と歩兵が突進して行った。あちこちで散発的な交戦が始まる。する
とダンデルスの後を受けたヤンセンスJan Willem Janssens第37代総督は、早々とヴェ
ルテフレーデン防衛部隊をメステルコルネリスに引き上げさせて背水の陣を固めた。

南往き街道をメステルコルネリスに向けて進軍するイギリス軍は、街道沿いに設けられた
フランス=オランダ軍の砦に悩まされながらもメステルコルネリス要塞に向けて接近して
いく。1811年8月26日に要塞が最終的に陥落した後、中部ジャワに逃走したフラン
ス=オランダ軍にはイギリス軍と対等に戦う能力が残っておらず、イギリス軍が行う掃討
戦に敗れて白旗を掲げる結末が相次いだ。イギリス軍に捕らえられたフランス=オランダ
軍兵は6千人にのぼった。

こうして1811年9月18日にスマラン地方で行われた最後の決戦で敗れたフランス=
オランダ軍はスマラン郊外のトゥンタンTuntang村で降伏文書に調印し、イギリスの勝利
が確定した。イギリスはジャワとパレンバンそしてマカッサルの統治権を手に入れたので
ある。

そのジャワの統治権をイギリスは1816年8月15日にオランダに返還し、マレー半島
経営に専念するようになる。ジャワの統治に心血を注いでいたラフルズ第40代総督はそ
の返還に反対したが、大英帝国の思惑は違う所にあり、ラフルズの希望と夢は潰えてしま
う。落胆したラフルズは心機一転してシンガポール島の開発に乗り出し、今日のシンガポ
ールの礎石を築いた。返還がなされずラフルズの手腕が振るわれ続けていたら、ジャワ島
は・・・・シンガポールは・・・・・?


1819年、ロンドンミッショナリーソサエティの牧師がジャカルタのコニングスプレイ
ンの南東でチキニ地区の北端部に土地を買い、質素な教会を建てた。現在トゥグタニTugu 
Taniと呼ばれているモニュメントと道路をはさんでちょうど真向いにその教会がある。こ
の教会は1829年に改装されて豪壮な建物に変わった。アングリカン教会All Saints 
Church/Anglican Churchと呼ばれているこの教会の墓地にはイギリス軍将校たちが埋葬さ
れており、1811年の戦争の際の戦没者も含まれているという話だ。[ 続く ]