「ヌサンタラのイギリス人(4)」(2020年10月26日) 帆船による大航海時代に名を遺した船長たちもバタヴィアを訪れた。1770年4月にエ ンデバー号による航海でオーストラリアの南東海岸部をはじめて発見したヨーロッパ人と して著名なキャプテンクックはその後オーストラリアから東インドに向かい、バタヴィア に寄港した。スリブ群島Kepulauan Seribuの中のひとつでVOCの造船所と船舶修理施設 が完備されているオンルストOnrust島で船の修理を行う間、船長はバタヴィア城市内南部 の、今日トコメラToko Merahと呼ばれている建物に宿泊した。 このトコメラは現在の西カリブサール通りJl Kali Besar Barat南詰にあるバタヴィアチ ャータードバンクビルからほぼ百メートル北に位置している、表が全面的に赤色で塗られ ている建物で、周りが一様に白塗りだから遠くからでもすぐに分かる。トランスジャカル タバスのコリドール12に乗って西カリブサールバス停で降りれば、トコメラはすぐそば だ。 この建物は1730年にファン・イムホフが第27代総督になる前に建てたものだった。 2,471平米の土地にかれは豪壮なヴィラを建てた。ファン・イムホフのあと第28代 のヤコブ・モッスルJacob Mossel総督(1750?1761), 第29代のファン・デル・パッラ Petrus Albertus van der Parra総督(1761?1775), 第31代レイニア・デ・クラーク Reinier de Klerk総督(1777?1780), ニコラス・ハーティンNicolaas Hartinghやフォン・ ホーエンドーフBaron von Hohendorffら高官たちも本人や家族がそこを居所にした。 1786年から1808年までそこはヒーレンロジメンHeerenlogementとして使われた。 VOCにとっての貴賓用宿舎だ。アムステルダム本社のヒーレンが出張して来たり、諸外 国の高貴な人物が訪れたときに使われたと思われる。キャプテンクックが泊まったのはそ の前だから、多分ファン・デル・パッラ総督の賓客として泊まったのだろう。 その時期、この宿舎には客用の馬車8台、馬16頭が建物裏に用意されて、客の外出の用 を足した。もちろん、西洋社会においては自動車が発明されるまで馬と馬車が個人用交通 機関だったのだから、宿舎として使われる以前も以後もその建物に厩舎とガレージがあっ たことは十分に想像される。それに加えて表のカリブサールにはスンダクラパ地区のバタ ヴィア港との往復のために小船が6艘用意されていた。主に荷物の運搬に使われたようだ が、ひとも運んだのではあるまいか。 1743年に総督になったファン・イムホフは、海員養成学校Academie de Marineをこの 建物に開いた。学校は1755年まで続いたそうだ。VOCの船に乗組んで指揮を執る人 材の養成が、バタヴィアおよび東インドの諸都市に住む青少年を対象にして行われたので ある。この学校はその種のものとしてアジア最古だと謳われている。 1809年から13年までアントニー・ナケアAnthony Nacareがそこに住み、その後さま ざまなひとの手から手に渡された後、1851年になって華人カピタンのウイ・リオウコ ンOey Liauw Kongの手に落ちる。ウイは建物の表を赤塗にしてそこを商店にしたため、世 上でトコメラと呼ばれるようになった。だからキャプテンクックの時はまだトコメラにな っていない。 しかしトコメラという名前の由来を1740年10月の華人街騒乱Chinezenmoordに結び つける者がいる。華人を見つけ次第皆殺しにせよという命令を受けたVOCバタヴィア防 衛軍が華人居住者の多いバタヴィア城市内西側の南部貧困地区で一大殺戮を行ったことか ら、カリブサールの水が真っ赤に染まった。そのイメージが建物に結び付けられたという ようなことを匂わせる話になっている。この種の話をわたしは最初、華人がかれらの被害 者意識を泣訴するためのものというように感じていたのだが、最近ではどうもその反対で はないかという気がしてきている。華人憎悪者が華人に向けた嫌悪感を裏側に秘めている ような気がしてならないのである。[ 続く ]