「ヌサンタラのイギリス人(終)」(2020年10月27日)

グヌンサハリGunung Sahariという道路名は一日で華人の屍が山になったからだ。ジャテ
ィヌガラのラワバンケRawa Bangkeという地名は、華人の屍が池を埋めたためにそう呼ば
れるようになったのだ。アンケAngkeという地名は漢字「紅渓」の福建語読みであり、ア
ンケ川の水面が華人の血で朱染めになったことに由来している。云々・・・・

歴史的な考察を加えればそれらが史的事実から逸脱していることは明白なのだが、それで
もそんなことを言うのは、「だからお前たち華人は気を付けな」という意図を裏に隠して
いるように思えて仕方ない。

日本軍政期にはジャワ軍政監部衛生局がこの建物を使ったようだ。

ところで、トコメラにも妖怪譚がある。二棟から成るこの建物は一階に16室、2回に4
室、3階に5室と多くの部屋があり、そのどこかの部屋で時折窓から外を見ているオラン
ダ娘の姿を見ることがあるというのがその話だ。そのオランダ娘は華人大虐殺のとき、外
で繰り広げられている暴虐を見て被害者を助けようとし、オランダ兵に殺されたのだとい
う説や、この館では昔、オランダ娘を折檻することが行われていて、それで生命を落とし
た娘もおり、今でも館内ではふっと娘の忍び泣きする声が聞こえたり、悲鳴が聞こえたり
するという説もある。また館内見学の少女たちの中で、突然憑依現象に襲われる者がおり、
気絶したり、暴れてオランダ語を流暢に喚き散らす者があるという話もある。もちろん本
人にオランダ語の素養などない。


キャプテンクックの他にも、イギリス人船長は何人かトコメラに宿泊している。著名人物
としてはバウンティ号反乱事件で有名になったキャプテンブライがいる。1789年4月
28日にバウンティ号を乗組員に乗っ取られたブライ船長以下19人は、全長9メートル
のランチに乗せられ、タヒチ島海域で大海の中に放り出された。

一行はヨーロッパ文明が存在する東インドのティモール島を目標に定めて、大海を小船で
渡る6千7百キロの冒険行を開始したのである。キャプテンクックの薫陶を受けたブライ
船長は常人の及ばない航海術を駆使し、47日をかけてその距離を踏破してティモール島
クパンKupangに1789年6月14日に到着したのだった。

クパンからバタヴィアに到着したブライ船長は日記にこう書いた。「バタヴィアでは、他
の場所に宿泊してはならない外国人の宿舎があり、そこに泊まった。このホテルはたいへ
ん汚く、ろくにメンテナンスがなされていなかった。」

バタヴィアにやってきた他の船長たちは、ニューブリテン島を発見したウィリアム・ダン
ピアWilliam Dampierが1700年に、1766年にジョン・バイロンJohn Byron、そし
てフィリップ・カートレットPhilipe Carteretなどと多彩な顔触れになっている。

南太平洋を走る船はバタヴィアが外すことのできない寄港地になっていたようだ。たとえ
どれほどコレラやマラリアで生命を落とすリスクが高かったとしても。[ 完 ]