「ヌサンタラのロシア人(1)」(2020年11月16日)

ロシアの歴史の中にインドネシアが初めて登場したのは17世紀末のころだ。ピョートル
大帝の時代に語られていたオストロヴニツァOstrovnitsaという地名がヌサンタラを示し
ていたことは今や共通の見解になっている。

ロシアのふたりの世界周航家イヴァン・クルゼンシュテルンとユーリ・リシャンスキーは
1806年にスンダ海峡を通って東シナ海に抜ける航路を取り、そのときヌサンタラ住民
とロシア人の接触が史上初めて起こった。それ以来、ロシアの船は相次いでオランダ領東
インドを訪れてケロシンや工業製品を住民に売り、コーヒー・茶・タバコ・コプラ・スパ
イス・鉛などを住民から買った。


1876年、ボゴール植物園の植物誌とスンダ及びジャワの原住民の生活や慣習を記した
5冊の書物が出版された。その著者がロシアの民族学・人類学者ニコライ・ミクルホ‐マ
クライNicholai Mikluho-Maklaiである。

かれは1870〜80年代にニューギニア島に入って調査を行った。島の東北部と西南部
を訪れて調査し、ニューギニア島東半分のイギリス領と西半分のオランダ領の両方で情報
と資料を集めた。その島にかれが最初に上陸したおよそ百キロの長さを持つ東北部の海岸
はロシア語版世界地図にミクルホ‐マクライ海岸と書かれている。最初は西洋諸国の地図
にもMaclay Coastが記されていたものの、第一次大戦後オーストラリアがその海岸の名称
をRui Coastに変えた。パプアニューギニアのひとびとはそのロシア人学者をいまだに尊
敬しており、海岸の名称をミクルホ‐マクライ海岸に戻す議論がときどき巻き起こってい
る。


ニコライ・ミクルホ‐マクライはノヴゴロドのラジュデスヴェンスコイェで1846年に
生まれた。父親は鉄道技師で、サンクトピテルブルク⇔モスクワ間の鉄道線路敷設に関わ
った。11歳で父親を失ったニコライは1863年にサンクトピテルブルク大学の数学物
理学部に入ったものの、政治運動に関わったため放校された。かれはロシアを去ってドイ
ツに向かった。

ハイデルベルク、ライプツィヒ、イエナの諸大学で哲学・人類学・民族学・動物学を修得
して学士号を得、スペイン・イタリア・イギリスなどを歴訪して各地の学者と交流してか
ら、調査研究に発心してカナリー諸島・モロッコ・スエズ・紅海を遍歴した。シアキンと
ジッダで奴隷市を目の当たりにしたかれは、そこで感じた人道的な怒りを日記に書きなぐ
っている。

ロシアに戻って調査研究の成果を発表したかれは、次にニューギニア島に向かい、さらに
マラッカ半島に入ってトレンガヌ・クランタン・パハン・ジョホールを訪れ、奥地に入っ
てスマン族とサカイ族を観察した。それからフィリピンを経て南太平洋の島々やオースト
ラリアに行き、民族学・人類学・地理学・気象学などさまざまな分野で成果を残した。

その中で、かれの興味はパプアニューギニア人にもっとも深く注がれたようだ。滞在した
土地で動植物や地理を観察し、また原住民の生活に密着してさまざまな秘密を解き明かそ
うとした。1871〜72年、1876〜77年、1883年と三度もその島を訪れて滞
在し、島の東北部海岸地区と西南部地区のパプアコウィアイPapua Kowiaiで調査研究にい
そしんだ。[ 続く ]