「食の多様性の誇りと現実(1)」(2020年11月16日)

野生の稲Oryza sativaはヒマラヤ・チベット・中国の原生で、ヌサンタラの米食習慣はア
ジア大陸、中でもインドとインドシナからもたらされたとされている。西アフリカ地方原
生種のOryza glaberrimaを別にして、稲にはインディカ種とジャポニカ種があり、インド
ネシアのIR種のコメはその二種を交配させたものだ。こうしてジャヴァニカJavanica種
が生まれた。

ヌサンタラのスマトラ・ジャワ・バリ・カリマンタン・スラウェシに米食習慣が広まるま
で、ヌサンタラの住民はサトイモtalas、クワズイモsenthe、ゾウコンニャクsuweg、ダイ
ジョ類uwi-uwianなどの芋類を食べていた。その後、ヌサンタラで産する芋類にはカラジ
ュームkeladi、キャッサバsingkong、カンナディスカラーganyong、クズウコンgarut、サ
ツマイモubi jalar、ジャガイモkentangなどが加わったが、それらはアメリカ大陸熱帯地
域の原産で、西洋人がヌサンタラに持ち込んできたものだ。サツマイモはもっと昔の紀元
3世紀ごろに南米からポリネシアに伝わり、パプア・台湾・日本にまで広がったという説
もある。


米が主食のプリマドンナになれたのは、持続的な備蓄能力、料理が簡単、口当たりがよい、
などの理由が挙げられるだろう。更にローカル産の芋類よりも栄養素やエネルギー補給の
点でより優れていたこともある。インドネシア人の間によく見られるビヘイビアの中に、
コメ以外の食べ物で腹がいっぱいになっているにも関わらず、まだ食事をしていないと言
う者が多い現象がある。コメの飯を食べなければ食事ではないのだという観念は、コメが
この民族の中に育んだ価値観のひとつと言うことができそうだ。

コメがプリマドンナになった裏側には、政治の操作がある。中でもマタラム王国時代にコ
メが善政悪政の評価基準に使われたことが、コメが統治者にとっての政治ツールになる扉
を開くことになった。ジャワ年代記に記されているように、コメが潤沢に社会に流通して
いることが王の統治をバックアップするという思想だ。

スハルト大統領が行った緑の革命はマタラム王国のその統治思想を明らかに反映している。
国民に白い飯を腹いっぱい食べさせることが国家統治者の善政あるいは統治の成功を示す
ものという認識のもとに、コメの生産が困難なヌサトゥンガラやパプアの内陸部にまで
「国民たるものはコメを食え」観念を押し込んで行ったのである。コメ自給はその基盤で
あり、生産量増大が国家を挙げての至上命令にされたことで、エコロジー破壊や農民の主
権喪失といった犠牲は一顧だにされなかった。


インドネシアの各地にある「稲の神様」神話では、スリ女神Dewi Sriが種々の名前で呼ば
れており、しかもその本質が微妙に異なっている。スンダ語ではニャイポハチサンヒヤン
アスリNyai Pohaci Sanghyang Asri、ブギス語はサギアンスッリSangiang Serriなどとな
っていて、農事の神、稲と水田の神、豊穣の神など焦点の当たる位置がすこしずつ違って
いるのだ。

スリ女神神話はヒンドゥ渡来以前からヌサンタラに存在していた。多くの歴史家や民俗学
者はジャワのデウィスリ神話について、インド由来のヒンドゥ女神とジャワ古来の月の天
女物語のシンクレティズムの産物だとしており、加えてデウィスリは元来豊穣の神であり
多様な種々の植物を包括的に護る神であったものが、マタラム王国時代に稲の神にシフト
されたという意見を述べている。

元来の物語では、デウィスリの遺体の頭からはヤシの木、目から稲、胸からモチ米、陰部
からパームヤシ、両腕は様々な果樹、脚は種々の芋類やサトイモが生えたと語られている
ように、稲と他の食用植物は等価の関係にあったにもかかわらず、マタラム王国は稲に強
いスポットライトを当てて他の食材を影の中に投げ込んだのである。


インドネシアの米食習慣は最初、スマトラ・ジャワ・バリ・カリマンタン・スラウェシの
住民の一部だけが行っていた。地域住民の末端までが日々米食をしていたわけではない。
しかもジャワ島でさえ昔は、コメは他の炭水化物摂取源の食材と一緒に、ワンノブゼムと
して扱われていた。[ 続く ]