「ヌサンタラのロシア人(2)」(2020年11月17日)

1871年の最初の訪問の際、かれはサンクトピテルブルク港からコルヴェット艦ヴィテ
ィヤス号に乗ってロシアを離れた。艦は各地に寄港しながら世界周航ルートをたどり、1
871年9月18日にニューギニア島東北部のアストロリャビア湾に停泊した。

近郷にあるゴレンドゥ、ボング、ボガティムの村々の住民は、これまで見たこともない煙
を吐く大きな船がやってきて、色の白い人間が上陸して来るのに驚いた。最初は武装した
8人の原住民がニコライに向かって矢をつがえ、矢先はかれの顔と胸に向けられた。ニコ
ライは敵意の全くないことを示しながら親しみを込めて悠然と応対し、徐々に緊張はほぐ
れて原住民は矢をおさめた。

ニコライが最初に知り合った原住民は名前をトゥイと言い、トゥイとその息子はかれにと
って終生続く友情で固く結ばれることになった。ニコライとトゥイは手をつないで、そこ
から一番近い村に向かった。原住民の間で顔を知ってもらうためだ。出会う村人のひとり
ひとりにニコライは土産物を与えてあいさつした。

ひとわたり村人に顔を見知ってもらったかれは、上陸地点に戻った。海岸のボング村寄り
の場所にヴィティヤス号の船員たちがニコライのための家を建てていた。その家で、かれ
はスエーデン人の鯨漁師ウルソンとポリネシア人少年のニ人と共に暮らし始めた。

陸上での成り行きを確認するために、ヴィティヤス号は数日間停泊した。色の白い人間が
敵対行動をしかけてこないのに安心した原住民は、手土産を携えてヴィティヤス号に接近
し始めた。ヤシの実・バナナの房・熱帯のさまざまな果実・・・。中には豚一頭をプレゼ
ントした者、あるいは犬を二頭持って来た者もあった。かれらは興味津々と艦上に上がっ
て来て、好奇心満々に艦内を見て回った。ロシア人士官や船員がかれらを歓迎したのは言
うまでもない。


この大自然の下で生きている未開の人間たちの姿の中に、ニコライというひとりの人間を
作り出している文明なるものの原点をかれは見出したのだろうか。それは人間としてのか
れ自身の原点に二重写しになるものであったにちがいあるまい。故国から遠く離れたニュ
ーギニアの地でかれはやっとそれに出会ったということなのだろうか。

かれはそこでの暮らしの中で原住民との平和共存をはかり、原住民はかれを受け入れてさ
まざまな祝祭や慣習行事に招いてくれた。原住民の暮らしを細かに知るうえで、それが大
きなメリットになった。さまざまな種族の言葉にも、かれは精通するようになった。

かれはまた、文明社会が持っている多様な知識を原住民に指導し、病人や怪我人にできる
かぎりの治療を施し、釘の使い方や釣り針で魚を捕ることを教えた。原住民が釣り針で捕
った魚をかれの家にしばしば持って来た。かれは日誌に書いている。「毎日、同じような
ことを繰り返している。朝は動物学者になり、病人が出れば医者になり、薬剤師になり、
料理人になり、洗濯人になる。要はマスター何でも屋だ。」
そんな何でも屋はイラストも描いた。原住民の肖像、石斧や鍬などの道具類、崇拝する神
像、そして原始のまま息づいている風景。


ニューギニア人が昔は金属の製法を知っていた時代があり、一時期は文明の発展階段の上
位に立っていたことがあるという仮説をかれは立てている。しかしその英雄的時代は終わ
り、かれらは自然の中で生きることに方針を変えた。

耕作や漁労で食糧を得、慣習を単純なものにし、人間同士が愛し合い、いたわり合って平
和に暮らす道を選択した。ニコライはこう書いている。「わたしは原住民たちの礼儀正し
さと穏やかな人間関係に感嘆する。妻子に対する親睦感情はたいへん大きいものだ。家族
の間でいがみ合いや喧嘩が起こったことをわたしは見たことがないし、また、村の中で盗
みや殺人が起こったことなど聞いたこともない。生活共同体の中にはボスがおらず、そし
て貧富の差もない。だから嫉妬も憎しみも存在しえないのだ。
現地の娘たちの倫理性もヨーロッパの娘たちに十分匹敵するものだ。偽善の中で教育され、
人為的な偽善に満ちているヨーロッパの娘たちの倫理性がここの娘たち以上のものである
とは言い難い。」
[ 続く ]