「食の多様性の誇りと現実(2)」(2020年11月17日)

ボゴール農大教官によれば、ジャワ農民が昔行っていた栽培パターンはpala kesampar、
pala gumantung、pala wijo、pala kependem、para kitriなどの名称で呼ばれていた。そ
こに稲の単一栽培の面影などまったく見当たらない。pala samparは赤カボチャのように
広大な土地に広く植えるもの、pala gumantungは季節性のないヤシやバナナの栽培、pala 
wijoは穀物の栽培、pala kependemは芋類、そしてpala kitriは家の周辺に植えるさまざ
まな種類の植物の栽培方式を指している。

亜熱帯から北の地方でひとは食糧保存に食材の加工や発酵などの手段を使ったが、ヌサン
タラという熱帯地方においては生産そのものに関心が振り向けられた。自然が種々の食用
素材を人間に恵んでくれたことで、この大地が食糧倉庫になったのである。さまざまな作
物を栽培することは土地の生産性に最大限の効率を与えることであり、それによって食糧
確保能力が向上した。教官はコメへの志向が自然発生的に起こったという考えについて、
そう反論している。


ところがインドネシア国民は共和国独立以来、米食優先民族の道を歩むようになった。2
016年の国民ひとり当たり年間消費量は101キログラムあって、世界有数の国のひと
つになっている。米食が進展したのは、オルバ時代だった。国民の主食の中でコメが占め
る比率は、1954年(オルラ時代)の中央統計庁データでは53.5%であり、シンコ
ン22.3%、トウモロコシ18.9%、芋類5%が残りを埋めていた。1999年の統
計によれば、シンコン8.8%、トウモロコシ3.1%、残りはコメと小麦加工品で埋め
尽くされている。

スカルノ大統領ですら、国民のコメ志向を戒める演説を行っている。1965年の農民の
日祝賀式典のスピーチでスカルノ大統領は、国民の食糧確保をコメだけで行うのは無理だ
と説いた。共和国独立前に全国のコメ生産は550万トンあった。1965年には1,1
00万トンまで増加した。しかし値段は上昇している。どうしてか?国民人口は7千5百
万人から1億5百万に、5割近く増加しているのだから。

水田を増やしてコメを増産する方向性は的確でない。なぜなら、残っている土地の大部分
は乾燥地であり水田に向かないからだ。食糧の多様性を追求し、性質の異なる土地に合っ
た食糧を生産することで国民の食糧確保がなされなければならない。


昔は、稲栽培が伝わった地域ですらコメ偏重は起こっていなかった。ましてや稲栽培に不
向きなヌサトゥンガラ・マルク・パプアでは米でなく芋類umbi-umbian、サゴsagu、パン
の実sukunが長期にわたって住民の主食になっていたのである。

とは言っても、上のような表現はたいへんにミスリーディングであり、頭脳がまだ十分に
練られていない人間にとってはある意味で危険なものになる。行政地域区分と植生や栽培
状況がオールオアナッシングで完璧に対応するわけがないことを理解している人間とそう
でない人間は、上のような文章の受け取り方に大きなずれが発生するのが普通だ。

あたかも行政地域区分が自然と一対一対応をしているような表現は概略あるいは大傾向の
話なのであって、ミクロの観察を行えばそんなことは言えなくなってしまう。何も言えな
くなっては元も子もないから、マクロ(大傾向)の表現を使わざるを得ないのだ。

カリマンタンの奥地へ行けば水田などまったく存在しない状況が見えるだろうし、ヌサト
ゥンガラには蜘蛛の巣水田があったり、あるいは18世紀のスンバワ島はアジア最大の米
輸出地域だった事実なども存在しているから、上の文を読んで、ヌサトゥンガラという行
政区分が地域全体で昔は米が一粒もなかったなどという想像を脳に記憶させると、とんで
もない誤認をすることになる。わたしが怖れている危険はそこにある。

特に若いひとびとに対してはマクロとミクロの併存観念を持たせることが必要だろう。ミ
クロを認識させるのは、現場を見に行くことに帰す。だから昔から「旅をさせろ」という
警句が語られて来た。書を読んでマクロを把握するのは知性にとって必要なことだが、日
本人がすべからく持っている顕著な傾向のひとつに書物偏重がマクロとミクロのバランス
を喪失させていることがあるとわたしは常日頃から思っている。[ 続く ]