「ヌサンタラのロシア人(3)」(2020年11月18日)

ニコライの消息が絶えて月日を重ねたことから、イギリスのマスメディアがニコライ死亡
の憶測を流した。それに驚いたロシア人が、事の真偽をたださんとしてイズムルッド号を
派遣した。

船がアストロリャビア湾に到達したとき、ニコライの家は何事もなかったかのように建っ
ており、そして原住民がいて、その間にいるニコライが手を振っているのが見えた。その
とき、船内に「ウラー」の大合唱が湧きおこった。


ニコライがその地を去ることを伝え聞いた周辺の村々から、引き留めようとする意向を携
えた原住民がひっきりなしにやってきて、嘆願し、口説いた。再会を約束してニコライは
船上の人となった。

船はかれをマルクのティドーレとテルナーテに運んだ。そのあと、船はさらにフィリピン
のマニラに寄港し、ニコライは山中に住むネグリート族の生活を観察した。小柄なネグリ
ート族がニューギニア原住民とよく似た性質を持ち、類似の生活習慣を営んでいることが
明らかにされた。

その後、船はジャワ島のバタヴィアに入り、ニコライはバイテンゾルフの植物園を見学し
たが、そのとき東インド総督がかれにバイテンゾルフ宮殿に滞在するよう勧め、宮殿敷地
内のパヴィリオンをかれに提供した。


1883年にニコライが三度目のアストロリャビア湾上陸を実現させたとき、原住民は男
だけでなく女も子供を連れて海岸へやってきて、歓喜にあふれたお祭り気分を湧き立たせ
た。ひとびとはかれの住む家を建て、周辺の土地をきれいにし、船から下ろされるかれの
必要品を大喜びで家に運び込んだ。そのとき、かれはこれまでに増して大きな意味を持つ
研究成果を得ることができた。

1884年2月、かれはまたニューギニア島を訪れたが、そのときは南西部のパプアコウ
ィアイが訪問先だった。しかし健康状態が悪化したために、かれはそこを引き上げてバイ
テンゾルフに向かい療養に専念することを余儀なくされた。

バイテンゾルフ宮殿のパヴィリオンのひとつがかれに提供され、総督の客人としてそこに
逗留したが、そのときに総督の娘のひとりとの恋愛譚が噂された。そういう記事がロシア
人の署名入りでコンパス紙に掲載されている一方、同紙の別の記事によれば、ニコライが
生涯の伴侶を得たのはオーストラリアに滞在中のことで、学者仲間のジョン・ロバートソ
ンの娘マルガリータと1884年2月27日にオーストラリアで結婚したという内容が記
されている。オーストラリアからロシアへの帰途にバイテンゾルフに立ち寄ったとしても、
新妻を連れたかれに上のような話が起こるとは考えにくい気がする。

帰国後、この夫婦はサンクトピテルブルクに居を構えて、男児を二人育て、ニューギニア
原住民のように仲睦まじい家庭を築いたとその記事には記されている。


ニコライはまたニューギニア島東半分を領有しているイギリスの現地統治官に手紙を書き、
アメリカ人の探検計画を批判し、またドイツの南太平洋における行動を人道主義の観点か
ら非難した。イギリスおよびオランダの現地統治官に対して、古来から続けられて来た原
住民の生活慣習に干渉する原住民政策への強い批判をもかれは行っている。

かれは1888年4月14日に病気で世を去ったが、1886年に帰国してから没するま
で、かれはロシアの著名な学者のひとりとしてマスメディアに取り上げられるスターにな
っていた。かれの労作である学術諸論文を集めたものは1923年から発行されるように
なった。[ 続く ]