「ヌサンタラのロシア人(4)」(2020年11月19日)

ニコライが調査研究を行った地域の諸村は先祖代々語り伝えられてきたタモルスTamo Rus 
(tamu Rusia)の話を集合記憶として保持し続けており、ニコライが連れて来た一対の牛が
子孫繁栄して牛の群れになっていたり、またかれが教えたトウモロコシ栽培も原住民の食
糧確保の一助として維持されている。

その諸村で使われている地域語の中にロシア語源と思われる単語すら見つかっている。西
瓜はabrus、トウモロコシはgugurusa、牡牛はbyikaといったものだ。またマクライという
名が学名に付けられた果樹植物もある。


ロシア帝国の高位にあるひとびとも、バタヴィアを訪れている。バタヴィアは第二次大戦
勃発まで、東南アジア有数の文明化した大都市だったのであり、東南アジアの重要な寄港
地のひとつになっていた。

1890年、まだ皇太子だったロシア帝国最後の皇帝ニコライ二世が極東訪問航海の途中
でバタヴィアに立ち寄っている。1911年にはボリス・ヴラジミロヴィチ大公がシアム
王の宮殿における戴冠式に列席したあと、バンコクからの帰国の航海でバタヴィアに立ち
寄っている。

1894年、ロシアはオランダ領東インドとの貿易拡大を望んで、バタヴィアに領事館を
設けた。初代の駐バタヴィア・ロシア帝国領事として赴任したのはモデスト・バクーニン
Modest Bakuninであり、かれは有名な無政府主義者ミハイル・バクーニンMikhail Bakunin
の叔父に当たる。バタヴィア領事は1899年に帰国したが、その後任者はやってこなか
ったらしい。かれは1902年に「Tropical Holland〜ジャワ島の5年間」と題するモノ
グラフを出版した。多分それが系統的にヌサンタラの住民とその生活や習慣、地理や自然
などをロシアに紹介した事始めだったようで、ロシアにおけるインドネシア学の礎石とな
った。その中にはおよそ5百語のムラユ単語がロシア語の定義を添えて記されている。ま
たパントゥンに関する解説も詳しい。

1917年、ロシアにボルシェビキ革命が起こってロシア帝国は崩壊し、共産ロシアが誕
生する。インドネシアは第二次大戦を経て独立宣言を行い、オランダ領東インドから脱皮
した。第二次大戦後、米ソ二大陣営の対立構造が激化し、同時に起こったアジア・アフリ
カの民族主義と反植民地主義の動きに関連して、ソ連はそれをバックアップする立場に回
った。

1930年にモスクワ東洋学院の学者アレクサンドル・フーベルAlexander Huberはオラ
ンダ領東インドの社会経済概説に関する279ページの論文を書き、オランダ領東インド
と呼ばずにインドネシアと記した。地理学上の学術名称が政治的な領土に対してはじめて
使われたのが、このロシア語の論文だったと言われている。

1949年8〜12月のオランダとインドネシアのハーグ円卓会議のあと、1950年1
月26日にソ連はいち早くインドネシアの独立国家承認を行った。1950年9月28日
のインドネシアの国連加盟にもソ連は早くからそれを支持する立場を表明している。

その年の2月3日にソ連はインドネシアに対して外交関係を結ぶことを求めて来た。イン
ドネシア共産党とイスラム系勢力との間で、その賛否をめぐって国会は大揺れに揺れた。
最終的に1954年、インドネシアとソ連はそれぞれの首都に大使館を開設することに合
意した。駐モスクワインドネシア共和国初代大使はスバンドリオ、駐ジャカルタソ連初代
大使はズコヴDA Zhukovが任じられた。

それから1965年までのオルラレジームでは、インドネシアとソ連の蜜月時代が続いた。
ソ連はインドネシアに対して軍事援助経済援助を惜しげもなく注ぎ込んだ。おかげでイン
ドネシアの軍事力は大きく進展し、中国に次ぐアジア第二の軍事大国になった。

スカルノ大統領は1956年以来四回もソ連を訪問した。スカルノが北京とモスクワを訪
問して社会主義陣営への接近をあからさまに示した時、米国外交筋はインドネシアを強く
批判し、スカルノを共産主義者呼ばわりした。スカルノはそれに関してこう語っている。
「全能の偉大なる神が作ったこのわたしという人間を、かれらはコテコテの共産主義者だ
と言うんだから・・・」
[ 続く ]