「食の多様性の誇りと現実(4)」(2020年11月19日)

米食文化がアジア大陸からジャワを中心にしたヌサンタラ西部地方にもたらされたとき、
コメ栽培技術だけでなく流通の観念も取り込まれた。ヨーロッパ人がやってくるまで、ジ
ャワは最高級のコメを近隣諸国に輸出するセンターの地位を得ていたのである。ジャワ農
民の貧困化の始まりは、オランダ人が口火を切った。肥沃な水田が輸出商品生産のための
サトウキビ・タバコ・ジャワジュート栽培に転換されたときがそれだ。

その政策は単なる土地の用途転換にとどまらなかった。植民地政庁は輸出商品生産のため
の労働力を米作農民に求めたのである。おまけにその労働コストを最低限に抑えるために、
農民の生活コストが上昇しないように努めた。つまり行政は米価をできるだけ低く保つよ
うに最大限の努力を払い、自分でコメを作らなくても食っていけると同時に、自分で作っ
てもたいした収入にならないという状況を政策によって生み出したのだ。農民のオリエン
テーションはおのずと定まって行った。1863年に発生した飢饉の際にコメの輸入は不
可避だったが、農園労働力を食わして行くために植民地政庁はコメの輸入関税を免除する
ことさえした。

オランダ人を追い払って日本人がそのあとがまに座ると、今度はコメの生産量を増やすこ
とに躍起になった。アジア一円に広範に拡大した戦線への軍需米供給源として、ジャワ島
は最初からその役割が当てこまれていたのである。生産量を増やすために日本軍はコメの
品種を替えさせることまでした。

ムルデカの雄叫びが山野にこだましてからも、政治アイテム化されたコメは道具にされ続
けた。オルラレジームにスカルノは、国民の食糧確保問題のバッファーにするために、軍
人と文民の公務員給与の一部をコメの現物支給にした。

オルバレジームでは、緑の革命の名のもとに食糧大増産政策が国を挙げて行われ、コメの
自給がその目玉にされた。災難だったのは、コメ自給の実現が1984年から1989年
までの5年間でしかなく、それを持続させることができなかったばかりか、農民の貧困化
という深い後遺症を農村部に遺したことだった。経済面社会面で民衆の間に格差が拡大し、
農民上流層と農政役人はメリットを得た一方、大多数の農民は貧困の悪循環に落とされて
しまった。


インドネシアの豊かな植生は人間にとっての飲食用素材の多様性を古来から育んで来た。
原生種のみならず、さまざまな外来種もヌサンタラの地に持ち込まれて、多様性はますま
す膨らんでいる。ボゴール農大のデータによれば、インドネシアには炭水化物摂取源とし
て77種類の植物がある。他にも豆類26種、飲料用素材40種、油脂分摂取源75種、
スパイス類110種、野菜228種、果実389種と、一種類1ページの写真集を作った
だけでも9百ページ近いものになる。これはブラジルに次いで世界第二位だそうだ。

オルバレジームが終焉し、レフォルマシ時代に入ってから数十年が経過して、緑の革命が
もたらした罪悪が総計上されてコメ一辺倒を中道に戻す動きが開始された。政府は各地方
で昔から主食のひとつにされていたものを取り上げ、国民がそれらを主食のひとつの地位
に戻すように指導を開始した。次のようなものがその対象として採り上げられた。

>サツマイモubi jalar 対象地はパプアで、焼いたり蒸して食べる
>トゲドコロgambili 対象地はパプアで、焼いたり蒸して食べる
>サゴsagu 対象地はマルクとパプアで、パペダpapedaにして食べる
>サトイモtalas 対象地は西スマトラ州ムンタワイ諸島とパプア、焼いたり蒸して食べる
>ソルグムsorgum 対象地はヌサトゥンガラ・スラウェシ・ランプン・東ジャワ、茹でた
り蒸してソルグム飯にする
>トウモロコシjagung 対象地は中部ジャワ・東ジャワ・ヨグヤカルタ・東ヌサトゥンガ
ラで、ジャグン飯やジャグン粥にして食べる
>パンの実sukun 対象地はスマトラ・ジャワ・パプア、実を茹でて食べるか、粉末に加
工して食品を作る

更にまた、それらの品種が在来的な食品でなかった土地にそれらを普及させようとする動
きも進められた。たとえばサツマイモの生産と消費を北スマトラ・ブンクル・バンテン・
西ジャワで振興させようという動きだ。サゴもリアウ・リアウ島嶼・西カリマンタン・中
部カリマンタン・中部スラウェシ・東南スラウェシ・北スラウェシでの振興が計画されて
いる。[ 続く ]