「ヌサンタラのロシア人(5)」(2020年11月20日)

スカルノはパンナム機に乗ってモスクワを訪問した。空港で飛行機が停まり、スカルノが
タラップを降りる時、パンナムの青い制服を着た金髪の美人スチュワーデスがタラップの
両側に整列した。すると地上で150人の楽隊と合唱団がインドネシアラヤの演奏と合唱
を始めたではないか。感動で涙がこぼれたとスカルノはそのときのことを追想している。
完全独立をやっとのことで達成した一新興国にここまで手厚いことをしてくれるのかとい
う感慨にかれは襲われたのだろう。ソ連の心情作戦はたいへんに効果的だったようだ。

大統領訪問の前準備で先にモスクワを訪れていたナスティオン国軍総司令官国防統括大臣
はそのときフルシチョフ首相と共に大統領を迎えるために空港で待っていた。首相がナス
ティオンに皮肉を言った。「将軍、インドネシアの娘たちはみんなきれいですなあ。」
将軍は切り返した。「首相がインドネシアにお越しになれば、もっと美しい黒髪の娘たち
をたくさんご覧になれますよ。」


スカルノの最初のソ連訪問時に、レニングラードでかれは中央アジア風の青いドームを持
つこぎれいな建物を目にした。好奇心に駆られて、かれはそこに立ち寄るよう運転手に命
じた。着いてみると、そこはただの倉庫だった。かれはその辺りにいるひとびとに尋ねた。
これは一体何なのかと。

昔これは美しいモスクだったのだが、共産主義がこの国を支配するようになって、すべて
の宗教施設は閉鎖を命じられたため、この建物もモスクとして使われなくなったのだ、と
いうのがスカルノの得た裏話だった。

レニングラードからモスクワに戻って来たスカルノに、フルシチョフ首相が訪ねた。「レ
ニングラードはいかがでしたか?あの美しい町をお楽しみいただけましたか?」
スカルノは答えた。「あなたのおっしゃるその町をわたしはろくに見なかったし、楽しく
もなかったですよ。」
「そんな馬鹿な。世界的にも美しいと言われているあの町に閣下は何日か滞在されたでし
ょうに。」
「いや、問題はね、わたしはモスクを探したのに、モスクが見つからなかったということ
です。」

スカルノが帰国してからフルシチョフはレニングラードで何があったのかを調べさせ、そ
して青いドームの建物を宗教施設として再開させるように命じた。レニングラードのムス
リムは驚き、その措置の陰にスカルノの名前があったことを知ってスカルノを尊敬するよ
うになった。そういう話が伝えられている。

1957年に7人のインドネシア人学生が国費留学生として迎えられたのをきっかけにし
て、多数のインドネシア人留学生がソ連のあちこちの大学に迎えられた。その数は通算し
て5千人を超えている。ソ連は西欧の植民地から独立した新興国家への援助の一環として
各国から青年の留学を受け入れる方針を取った。その中でインドネシア人留学生は最多数
に上ったのである。ソ連在留のインドネシア人留学生が2千人いた時期もある。1960
年代のインドネシアの都市部では、ソ連への留学が社会現象になっていた。


そのインドネシアとソ連の蜜月時代に作られた施設のひとつがジャカルタのスナヤンスポ
ーツコンプレックスGelora Bung Karnoであり、そのメインスタジアムIstoraだ。スナヤ
ンスポーツコンプレックスはインドネシアが1962年8月に第4回アジア競技大会を主
催するときに建設された。[ 続く ]