「ヌサンタラのロシア人(6)」(2020年11月23日)

その建設のためにスカルノはソ連に資金と技術の支援を要請し、ソ連はそれを受けて1,
250万米ドルの資金と建築技術者派遣の協力をインドネシアに与えた。スカルノはソ連
のルジュニキLuzhnikiスタジアムのデザインをたいそう気に入り、スナヤンにも同じもの
をと望んだことから、あたかもロシア人がルジュニキとスナヤンに双子のスタジアムを作
るような結果になった。

ソ連の援助で作られた施設はもっとたくさんある。東ジャカルタのプルサハバタン病院RS 
Persahabatan、チルゴンCilegonの製鉄所(現在のクラカタウ製鉄所)、チラチャップCi-
lacapの肥料工場、そして郵便局、電話局、銀行なども作られた。また、アンボンのパテ
ィムラ大学への地理学と海洋学の専門家派遣も行われている。


中部カリマンタンのパランカラヤPalangkaraya⇔タンキリンTangkiling間の道路を地元の
ひとびとはロシア道路Jalan Rusiaと呼んでいる。全長34キロ、幅6メートルの直線道
路はロシアの援助で作られたものだ。

なぜこんな場所に外国の援助で一級道路を作ろうとしたのか?それはスカルノ大統領が抱
いた首都移転構想に沿ったものだったのである。スカルノは植民地支配者の歴史が刻み込
まれているジャカルタを捨てて、新興国家にふさわしい新しい首都を作る夢を抱いた。そ
して、その当時森林原野でしかなかったパランカラヤに新しい首都を設けることにし、新
首都とサンピッSampit、そして更にパンカランブンPangkalan Bunまでの175キロを結
ぶ一級道路建設の支援をソ連に求めたのである。

1957年7月17日、ダヤッ族居留地パハンドゥッPahandutの森の木にスカルノは斧を
振るった。それが新首都建設の鍬入れ式だった。大人が両腕で抱えてもまだ届かないくら
い太い巨木が林立していたそうだ。

町の構造はカハヤンKahayan川を北端にして、行政地区・商業地区・住宅地区が分離され、
南東にあるバンジャルマシンと南西にあるサンピッ間の交通を陸路と水路の二本立てでつ
なぐ構想になっていた。

神聖・高貴・偉大なる場所という意味を持つパランカラヤと名付けられた未来の首都はこ
うして建設が開始されたのである。一方、ソ連に要請した道路建設も1962年に準備が
整って開始された。十数人のロシア人技師がやってきて、現場で工事の指揮を取った。ダ
ヤッ人数十人、そしてこの工事のためにジャワからやってきた百人を超えるジャワ人が、
ロシア人技師の指図に沿って作業を行った。

公共事業省道路建設専門家は、そのときたいへん丁寧な仕事がなされた、と語っている。
ロシアとは地質のまるで異なった泥炭土に覆われている中部カリマンタンに最高の道路を
作るため、技師たちは泥炭土の層をすべて取り去る方法を採ったのだ。どんなに深かろう
と、道路幅の分だけ泥炭土はすべて除去されて、そこに硬い基盤を底にした水路が出現し
た。その水路は石・砂・高密度の土で埋められた。1962年12月17日にそれが終わ
ると、排水設備・土固め・アスファルト舗装の工事が続けられた。たいへんな手間と時間
を費やす作業だったが、その効果は50年以上が経過したいま、だれもが明白に感じるこ
とのできるものになっている。

このロシア道路は現在、カリマンタンの海岸部を端から端までつなぐトランスカリマンタ
ン道路の一部になっている。トランスカリマンタンは至る所で穴が開いたり、褶曲したり
しているのだが、ロシア道路の34キロ区間だけは何の瑕疵もない、継続的に高速走行が
楽しめる道路になっているのである。

他の区間はたいていインドネシア人が建設したものだ。即席が大好きで、早く結果が出る
ことを尊ぶ民族性は、即席に完成し、そして即席に壊れて行く道路を国中に作っている。
壊れた道路を補修するのに予算が支出され、毎年同じことが繰り返されて、業者は受注の
絶えることがない。

公共事業省専門家は、ロシア人のやり方はインドネシア方式の3倍のコストがかかると言
う。しかしそのやり方で作られた道路はインドネシアの一般的な道路よりも5倍長持ちす
るのだそうだ。[ 続く ]