「装いのアイデンティティ(3)」(2020年11月27日)

1900年のオガスタ・デ・ヴィッツAugusta De Wit著「ジャワの事実と夢」には、ジャ
ワ女性はスラマタンの儀式の都度、その長い髪を焼いた藁で洗う習慣があると記されてい
る。初潮・結婚・妊娠7カ月などのスラマタンの準備として、焼いた藁で洗髪するのであ
る。それらの儀式は自然の中で起こる変化が人間の身体と霊魂に障害を引き起こさないよ
うに行われるものであるとクンチャロニンラ教授は説いている。

稲藁のことをインドネシア語でムランmerangと言い、ジャワ語もブタウィ語もムラユ語も
すべて同じだから、多分ムラユ語源の言葉が採りこまれたのだろう。ブタウィ郷土史家の
アルウィ・シャハブ氏はマンディムランmandi merangというブタウィの慣習について書い
ている。

1950年代のジャカルタは、まだ樹木が満ち溢れ、チリウン川をはじめ至る所の水流も
澄んでいて、市民はその水でマンディし、洗濯し、礼拝のウドゥの水を取った。そのため
に川の両岸には筏が係留された。

ラマダン月が始まる前になると、老若の女たちが筏の上で水浴し、順番待ちのひとびとが
岸にあふれる光景がよく出現した。水浴は、持って来た焼きムランを水に漬けてから、頭
の上から水を全身にジャブジャブかけ、それから焼きムランで頭のてっぺんから足首まで
をこするのである。

女たちはたいていクンベンkemben姿だったから、その頃のバリ島とはまた違っていたよう
だ。頭がシラミやフケだらけの者もいた。その時代はシラミを頭に飼っている者が多く、
女たちの日常には井戸端で互いに頭のシラミを取り合うcari kutuが習慣として成立して
いた。当然ながら、シラミを取り合いながら四方山話に花が咲くわけで、往々にしてそれ
が根も葉もない噂を広める結果を引き起こしたことから、多くの町内で男たちがチャリク
トゥ行為を禁止したという話だ。

フケについては、クトンベketombeというインドネシア語があるものの、この言葉はもっ
とあとになって社会化したらしい。50年代のインドネシア人はフケを各地方語で呼んで
いたのだろう。クトンベはラテン語由来であるという文句がインターネットに見られたが、
確信させてくれる説明がついていないので、はてな解説としておこう。

石ケンはその当時、Lifebuoyブランドくらいしか世の中に流通しておらず、LuxやCamayは
トアンの子供の世話をする召使い女たちがシンガポールで買ってくる品物をブラックマー
ケットで探すのが普通だった。さもなければ、タンジュンプリオッ港の南にある蜜輸入品
市場パサルウラルPasar Ularで探すこともできた。

マンディムランはおいおいマンディサブンに変わって行ったのだが、マンディムランには
身体清潔の意味とは別に霊魂を清める意味をも持っていたことをアルウィ・シャハブ氏は
述べている。オガスタ・デ・ヴィッツの言うジャワでの洗髪keramas merangとアルウィ・
シャハブ氏の言うマンディムランは対象部位にバリエーションがあるとはいえ、目的は似
通っている。先祖代々行われて来たこの慣習の根は多分同じなのだろう。それと同時に、
何となくコメ信仰がそこに影を落としているようにもわたしには感じられる。


オランダ人がヌサンタラにやってきて、原住民に文明的礼儀作法や身体の装いを教えるよ
うになると、昔から行われていた頭髪の取扱いも徐々に変化しはじめた。その変化の端緒
としてイスラムや西洋の諸文明の到来がプリブミの世界観宇宙観に影響を及ぼしたことを
指摘する歴史家もいる。こうして、19世紀にジャワ人は昔から維持して来た頭髪に関す
る伝統からすこしずつ離れるようになっていった。

20世紀に入ってオランダの植民地政策が倫理政策と呼ばれるものに変化すると、プリブ
ミのヘアスタイル、特に女性の短髪への志向が強まった。bobbed hairつまり日本語で言
う所の断髪やおかっぱ頭をモダン化の象徴とする見方が強まって来た。

1920年にスラバヤ発行の雑誌スルインドネシアSoeloeh Indonesiaがその現象を特集
し、西洋文化に抑圧されている東インド女性のありさまを批判的に描き出した。しかし旧
来の美風を維持しようと叫ぶ声に反対する女性たちも主張を掲げる。メダン発行の新聞プ
ルチャティムールPertja Timurには1929年に断髪推進派女性の書いた記事が掲載され
た。女性の短髪は時代が要求しているものであり、時代に合致して生きる女性は自らの選
択としてそれを行うのだという論説だ。[ 続く ]