「食の多様性の誇りと現実(13)」(2020年12月02日) スペイン人がメキシコから西に向かって航海し、定住した限界はマルク地方であり、スペ イン人の功績はそこが西縁で、反対にアフリカからインド、そしてインドネシアへの伝来 はポルトガル人が行ったという見解もある。そうなると、マルクはスペイン人、パプアは ポリネシア人、スマトラ・ジャワをはじめ他のヌサンタラはポルトガル人が担ったという ことになりそうだ。アフリカからジャワまでのサツマイモ普及はポルトガル人が行ったと いう解説も見られる。 バリエム渓谷をはじめとするパプア中央部高原地帯では昔からサツマイモが常用されて来 た。バリエムではhipere、ジャヤウィジャヤではsupuru、ティオムではmbiと呼ばれる。 バリエム産のものは巨大種で、長さ2メートル直径30センチ、重さ15キロというもの が採れるそうだ。パプアの住民は百種を超えるサツマイモにすべて名称を付け、10x2 0メートルくらいの畑に20種類くらいを植える。もちろん、異なる名称の種類はそれぞ れが異なる味と香りを持っているとのことだ。 栽培はほとんど手がかからない。芋を植えるとそのままで、あとはせいぜい蔓がよく伸び るようにしてやることと、日光がよく当たるように周辺に広がる木々の枝葉を落とすこと くらいしかすることがない。 植えた後、土壌や天候、そして種によって多少違いはあるものの、たいてい6〜8カ月で 収穫できる。栄養と水分の豊富な土壌であれば、6カ月後に芋はしっかりと育って採り入 れが行われるのを待つばかりだ。 かれらの芋に関する知識も充実しており、授乳期を終えた赤ちゃんや幼児には繊維のない ベータカロチンが豊富で肉のなめらかな種が与えられる。大人は違う種のものを食べ、家 畜には味のない種が与えられる。 しかしたいていのケースで芋は煮るか焼くかの二つの方法で食べられる。保存用には天日 干しして乾燥させ、貯蔵する。しかし室温が20〜30℃の家の中で保存できるのはせい ぜい3〜4カ月であり、それを超えるとたいてい腐ったり虫が付いて食べられなくなる。 そうなる前でも、古くなれば味と香りが低下し、芽が出てきたりすることもある。 そのためにかれらが生産するサツマイモの量が数千トンあったとしても、長期保存の末に 使えなくなって捨てられる量は少なくない。芋を使って菓子などを作ることもしないから、 生産量と飢えの間の関連性はあまりないと言うこともできる。かれらにとっては、サトイ モtalas/keladi、シンコン、バナナがサツマイモを補完するものになっている。 ジャワ島でもサツマイモはたくさん生産されている。ジャワ語でサツマイモのことをテロ telaと言うが、これはインドネシア語のクテラketela(ジャワ語発音はクテロ)と同義語 だ。つまりジャワ人はテロという言葉をubi jalarあるいはketela pohon/singkongの意味 で使い、日常生活では往々にして悪態語として耳に入って来る。日本語の「チクショー、 クソッ」などの感覚らしい。芋という言葉に劣等の価値感を負わせるところは日本人とよ く似ている。 スンダ語ではhuwi bolediniという名称で、huwiはubiの古語を思わせる。ジャカルタから プンチャッ街道を峠目指して上って行くと、道路脇に果実や野菜あるいは芋類を販売して いる売店があり、サツマイモが棚にびっしり並べられている。それがスンダ地方で有名な チルンブ芋ubi Cilembuだ。 西ジャワ州の州都バンドンから東におよそ30キロ離れたスムダンSumedang県パムリハン 郡チルンブ村で採れるサツマイモが一躍脚光を浴びるようになったのは1995年ごろで、 ブームが起こった当初はジャカルタでそれを探し回っても、どこへ行こうが売り切れにな っていた時期がある。そのころのチルンブ芋はキロ当たり2千5百ルピアで、他の種々の サツマイモがキロ当たり8百ルピア前後だったのに比べたら大当たりだったと言えるだろ う。 1998年には、産地の作付け面積は320ヘクタールしかなく、ヘクタール当たり生産 性は10トンで、年三回の収穫が可能であるとはいえ、土壌の疲弊を防ぐために農民は休 耕期間を設けるのが普通だったから、その当時の出荷量は週に10トンで、なんと一介の 芋なのに輸入米より5割増しの価格がついていた。[ 続く ]